第49話 髪
じゃぎん。
小気味良く、幾重にも重なった音。普段聞くことのないそんな音が聞こえた直後、一人の男の叫びが一軒の家の中に響いた。何が起きたのかと飛び起きる少年。
声を上げた男は後頭部を押さえ、相対する女性は大きな立ち切りバサミを両手に満面の笑みを浮かべている。ふわりと赤い物が床に落ち、叫び声に気づいた少年が慌てて二人の元にやってくると同時に小さくため息を吐き出した。何だいつものことか。だが改めて辺りを見回し少年は床に落ちた赤いもの見つける。拾い上げると結ばれていたそれは解け、手の上を流れるように床へと落ちる。
母が大事にしていた父の大事にしていた個性だと思ったけれど。
少年琉斗はとても楽しそうな母を見上げた。父の赤い髪が好きだと言っていた母は断ち切りばさみで父の髪を後頭部のあたりで切り捨てたように見える。綺麗に斜めに切りそろえられた赤い髪。母と同じような髪の長さになった父は今まで髪があった場所に触れ酷く訝しげに母を見る。なんで? 琉斗にとって中々見ない父の心寂しげな目を見ても母は笑みを崩さない。
「気分転換よ!」
「おまえ、そんな理由で、俺の」
「なによ女々しいわね、髪くらいで」
髪くらいって。父、龍騎はなくなった髪のあった場所に触れながら窓から外を見た。黒い夜。理容室はもう終わっている時間帯。明日、龍騎も母である遥も仕事。見目が全くいいとは言えない姿で仕事に行くのを父は嫌がるだろう。琉斗は父の夜着を引っ張った。
見目は良くないかもしれないが、自分が整えようか。
琉斗の言葉に龍騎はさりさりと真っ直ぐ揃えられた髪に触れる。
「琉斗、明日学校は」
夜遅いことを気にしているが、休みの日の感覚はないのだろう。
「明日は休みだよ。お昼に買い物は行くけど、それまではゆっくりできるから大丈夫」
「……なら、頼もうか。遥、やったことはやり返されると覚悟しとけ」
酷く満足げに笑ったままの遥は出来るものならね、とハサミを適当な場所に置いた。
あんな適当だけど仕事は大丈夫なの。髪が落ちても大丈夫なように紙を敷いた上で椅子に座らされた龍騎は息子からの言葉に少しだけ考えた。仕事でも遥は適当なのは変わりない。立場を微妙に隠す分には役立っているが、仕事に役立てているいえばといえば別にそんなことはない。
「うまくやってるよ。俺も、アイツも」
「……お父さんだけが頑張ってない?」
「はは、大丈夫。基本的に決まった時間に帰ってくるだろ?」
それこそ無茶をして決まった時間に帰ってきているのではないか。琉斗は父親の髪を整え、首に振れている切った髪を払う。
痛くない? 大丈夫だよ。
何を話すべきなのか。普通だったらこういう時父親と何を話すのか。悶々としながら父の髪を整え終わり、父の首に巻いていたタオルを取った。自分よりも短くなった赤い髪を鏡で確認した父は少し不思議そうにしながらも礼を返した。
「夜中に情けない声を上げて悪かったな。……あー、よかったらあと少しだけ手伝ってくれるか?」
妻が先程まで居た場所に居らず、寝入ったであろうことを確認し龍騎は琉斗へ笑いかけた。子供らしいいたずらっぽい笑顔に、琉斗は困ったように眉を寄せながら頷いた。
翌日、珍しく揃って出勤した二人は奇異の視線を集めていた。
隊長の長く赤い髪は短く整えられ、総長の青く短い髪は長く背中側でまとめられている。髪型を交換したのか、と思わず口にしそうな部下たちは総長である遥の一睨みで口を閉じた。
「珍しく朝から世話をやいてくれるから何かと思えば」
「髪の長いとこなんて見たことなかったけど、似合ってるよ」
足の届く範囲に入れば蹴られていただろう。総長の睨みを受けた髪の短な龍騎は笑顔で片手を振ると持ち受ける隊舎へと向かう。強い光が差しても赤く見える髪はない。
聞こえるように大きく舌打ちをした遥は龍騎の背中へと向けていた視線を前へと戻し、いつも以上に靴音を大きく鳴らして自身の執務室へと向かう。
振り返った龍騎は強い日に透けるような青い髪を見送った。
「本当に似合ってるんだけどなあ」
このまま長い髪も良いと思ってほしい。
翌日、いつもどおりの髪の長さに戻った遥はいつもよりも上機嫌で出勤していた。
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