「わたし、ずっと手塚くんのこと、好きだったんだよ」

「国枝!」


 慌ててこちらへ走ってくる手塚の姿を、志穂は何処か人事のように見つめていた。遠い世界のことのようで、現実味がなくて、すぐには受け止められなくて。

 だって、まさか向こうから会いに来てくれるとは思わなかったから。想定外のことに、脳内が一瞬麻痺した。

 だから、手塚の次の行動を予想することも、それを回避することもできなかった。

 走ってきた手塚が、志穂の方へ手を伸ばし。そして。


 抱き締めてくるなんて、思いもしなかった。

 予想も、回避も、できる訳ない。


 どうして。


 未だ現実を受け止めきれずに、志穂は抱き締められたまま、呆然と立ち尽くした。中庭の方から悲鳴のような声が聞こえた気もするが、構っていられない。

 どうして、わたしは今、抱き締められているのだろう。

 あんなに意思疎通ができていた筈の彼のことが、何も分からなくなる。


「だ、駄目だよ」


 混乱したまま、それでもどうにか吐き出した言葉は、酷く震えていて。


「駄目だよ、手塚くん」


 彼女がいるのに、こんな所で。


 駄目押しする声も、酷く頼りなくて。

 それでも、駄目と志穂が繰り返しても、手塚の腕は緩まなかった。


「───何で」


 いつもより圧倒的に近くで、志穂の耳元で発せられた手塚の声の方が、苦々しく掠れていた。


「何で、髪、切って」


 ああ、それを。

 それを、あなたが言うのか。

 志穂は思わず苦笑を漏らした。漏らせるだけの余裕が、やっと追いついた。


「だって、短い方が好きなんでしょう?」


 ───手塚くんが、短い髪の方がいいって言ってくれたから、思い切って切ってみたの。

 ───へえ。手塚会長、短い髪の子が好きなんだ。


 あの時の彼女の勝ち誇った笑い声が、今も耳に残っている。


「最後くらい、手塚くんの好みに合わせようとしたの」


 あれほど躊躇していた言葉は、いざ口から出してみれば、案外簡単にするりと落ちていた。

 腰まであった志穂の長い黒髪は、肩すれすれの位置まで短くなっていた。髪質のせいで、彼女ほど短くはできなくて、この長さが今の志穂の精一杯だった。

 視界の端にふわふわ入る横髪の短さには、志穂も未だに慣れていない。クラスメイトにも後輩たちにも同じ質問をされたけど、答えを言えたのは今が初めてだ。

 拘りがあって伸ばしていた訳ではない。ただ髪型を変えるタイミングを逸していただけ。

 だったら、これを機に短くしてみてもいいじゃないか。最後なんだから。


「だから、短くしたの。似合ってる?」


 そう言って、志穂は笑って見せた。

 吐き出すものを吐き出せて、肩の力を抜けた志穂とは逆に、抱き締めていた手塚の体の方が急に強ばった。手塚も、志穂の言葉は予想していなかったようだ。不意打ちを狙えたのなら、少し嬉しい。


 だったら、もっと予想外のことを告げよう。


 そんなことを考えられる余裕すら取り戻した志穂は、抱き締められたまま本題を告げようと口を開いた。直接彼の顔を見て言う勇気はやっぱりないから、このままの姿勢の方が都合がいい。


 きっと気付いていなかったと思うけど、本当はね。


「わたし、ずっと手塚くんのこと、好きだったんだよ。中学の頃から、ずっと」

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