「……ずるいよ」

 手塚は決して鈍い訳ではない。

 志穂が抱く恋心以外のことには、寧ろ鋭いくらいだった。


「国枝」


 今でも忘れられないのは、ある夏の日の放課後、いつものように生徒会室へ向かおうと廊下を歩いていると、後ろから手塚に声を掛けられたことだろか。

 ただ名前を呼ばれた。それだけなのに、振り向かなくても、志穂には分かった。

 ああ、この声は、怒っている。何に対してかまでは分からないけれど、とにかく怒っている。

 少しだけ躊躇して、それでも笑顔を張り付け、意を決して振り向くと。

 手塚の大きな手が、志穂の額に触れてきた。


「!? て、手塚くん!?」


 夫婦と呼ばれる二人だが、恋人ではない二人が直接触れ合うことは殆どない。しかも額を、こんな至近距離で。手塚の手の冷たさよりも、志穂の顔を真っ直ぐ覗き込む彼の顔の近さに、志穂の思考回路は瞬く間に機能を停止した。

 完全に動きを止めて固まった志穂を余所に、手塚は仏頂面を更に不機嫌なものに変え。


「この、馬鹿!」


 珍しく大声を上げた。


「こんなに熱があるのに、何で早退してない」

「え……え?」

「国枝」

「えーっと……」

「委員会会議用の資料まとめが必要だから」

「……」

「と言ったら、もっと怒る」


 いつも通り話が早くて、寧ろ早すぎて、志穂は説明も言い訳すらもできなかった。

 確かにその日、志穂は朝から体調がよくなかった。自覚はしていたが、体温は敢えて計らなかった。朝の時点で微熱くらいだろうと志穂自身は軽く捉えていた。

 実際、家族も友人たちも、志穂の体調不良に誰も気が付かなかった。

 昼過ぎには更に熱が上がった気もしたが、志穂は努めて考えないようにした。授業もそうだが、放課後の生徒会の仕事も外せない理由があった。明日は各委員会長が集まっての会議がある。それまでに、まとめておきたい資料が志穂の机の上に残っていたから。

 でも、手塚は有無を言わさず。


「今すぐ帰れ」


 端的に一言。


「で、でも……」


 せめて引き継ぎだけでも。そんな最後の悪足掻きすら許さず、手塚は額に触れていた手で今度は志穂の手を掴んだ。

 今度こそ、志穂は心臓が止まるかと思った。

 されるがまま、手塚に引っ張られて歩く。


「て、手塚くん、あの」

「資料は俺がまとめておく。国枝は帰れ」

「あの、手……」

「教室まで送る。こうでもしないと、帰らないだろう」


 よく分かっておいでで。

 理解してくれるのは嬉しくもあり、こういう場合は少し……恨めしくもある。手塚は、何が何でも志穂を帰らせる気らしい。こうなっては、志穂が校門の外に出るところまで見守りかねない。

 手を繋ぎ廊下を歩く二人を何事かと興味津々に見つめてくる視線が気にはなったが、志穂にはもう振り払う気力はなかった。手塚に指摘されて、体調不良をより自覚してしまったせいもある。抗うための気力も、もうない。体が、怠い。


 ただ、一つだけ。


 意識が完全に熱と彼に持って行かれる前に、確認しておきたいことがあった。


「手塚くん」


 無言で歩く手塚の背に問いかける。


「何で、わたしの体調不良、分かったの?」


 当時、手塚とは違うクラスだった。生徒会室でない限り、彼に会うことは殆どなかったのに。

 事実、志穂がその日、手塚の姿を見たのは、放課後が初めてだった。

 手塚は、ちらりと志穂の方を見て、すぐにまた前に視線を戻した。歩みは止めないまま、ぽつりと。


「昼休み」


 一言だけ口にした。

 相変わらずの、短い言葉。他の人なら、きっと何を言っているんだと頭を抱えるレベル。

 志穂とて、今は色々な意味で頭が朦朧としていて、普段より把握力が下がっている。それでも懸命にその一言を噛み砕いて。


「……ずるいよ」


 手塚の耳には届かない声で、ただそれだけを吐いた。

 昼休み、志穂は手塚のいるクラスの教室の前を通っていた。授業を受けていた生物室からの帰りだった。その時に、手塚が一方的に志穂を見かけたのだろう。

 ただ、それだけ。その時見かけただけで、手塚は志穂の体調不良を見抜いた。志穂の友人ですら、放課後まで気付かなかった体調不良のことを、たった一瞥しただけで。

 そう、見抜いてしまうのだ。分かってしまうのだ。言葉にしなくても、手塚は。

 そして、今もこうして無茶しようとする志穂のことを怒りつつも、心配してくれている。

 その優しさが、特別な相手に対するもののように思えて、泣きたくなった。手塚にしてみれば、「相棒」に対する心配で、「恋愛対象」に対する心配ではないと分かってはいても。

 今は誰よりも、手塚のそばにいられる。「相棒」であれ何であれ、手塚の一番そばにいられる異性は自分だと。それだけでも、幸せではないかと。

 思えば、あの頃が本当に一番幸せだった。副会長として、中学の頃と同じように手塚をそばで支えられていたあの頃が、一番満ち足りていた。

 ただ、そんな幸せは長くは続かなかった。

 手塚の一番そばにいるのは自分だと、そんな甘い考えに捕らわれていたからだろうか。志穂は、あることで死ぬほど後悔することになる。

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