女の血

藤枝伊織

第1話

 見飽きた天井の染みは人間の顔のようだ。それに話しかける毎日に嫌気がさした。深瀬は宙を蹴るようにして身体を起こし、胡坐をかいた。することがない。アルバイトも三ヵ月前にクビになり、財布であった女も気がつけば出ていってしまっていた。外にいっても金がないためになにもできないことはわかりきっている。

「そうだよな。金だよ」

 深瀬は呟いた。同時に金を貸してくれそうな男の顔を思い出す。この数年間思い出しもしなかったのに。松ヶ谷なら、中学の頃からなにかと腐れ縁のあいつなら貸してくれるだろう。お互いに納得はしていないが、深い縁があることは確かな事実だ。深瀬が住所を知っているのは彼の家だけだった。

 深瀬は手を伸ばしジャンバーを探った。狭いうえに物が散乱しているために、たいていは手のとどく範囲にある。身支度はできた。小銭しか入っていない財布をジーンズの尻ポケットに突っ込み、深瀬は部屋を出た。


 深瀬は電車のドアが開くまでの数秒すら煩わしく感じた。早く金が欲しい。返す当てがあるでもなしにそんなことを考えていた。

 ホームは閑散としていた。

 電車で二駅。時間にして五分ほど。腕時計を見ながら開いたドアの中に身体をすべり込ませる。現在、午後二時三十分。日曜日の昼時にもかかわらず、電車内は空いていた。椅子にふんぞり返るようにして座り、音をたてて貧乏ゆすりをした。


 松ヶ谷の家は駅から遠くないところにある。電車を降り、今度は数十分ほど歩くと、すぐに住宅街が広がった。彼の家はその中でも一等大きい。

 表札の「松ヶ谷」の字を見て、深瀬の内に、少し羨ましい気持ちが沸いた。深瀬に家族と言えるようなものはない。生きてはいると思うのだが、そもそも、そんな繋がりを維持したいと思えるような人たちではなかった。松ヶ谷はこの広い家で、正真正銘家族と共に暮らしている。

 金が欲しい。インターホンを鳴らす深瀬の指先は震えていた。

「どちら様ですか?」

 深瀬は思わず、表札を確認していた。確かにここは「松ヶ谷」家で間違っていないはずだ。だが、聞こえてきた声は若い女性のものだった。聞いたことのない声。たしか彼は一人っ子だ。姉妹はいない。そのうえ、母親は六十を越えていたはずだ。

 この声は、誰だ。

 深瀬は返事をせずに立ち尽くしていた。すると、再びインターホンから声が、同じことを繰り返した。

「どちら様ですか? ……あれ、聞こえてないのかな?」

 しばらくすると、玄関のドアが開いた。

 そこに立っていたのはもちろん松ヶ谷ではなく、声から想像したとおり若い女性。長い髪を耳の後ろできっちりと結い、細いフレームの眼鏡をかけている。

「誰だ?」

 思わず、深瀬は口に出していた。女性が訝しげな顔をする。

「俺は松ヶ谷……悠汰に会いに来たんだけど、あんた誰?」

 重ねて深瀬は言った。「悠汰」という名前を出したとたん、女性の顔がぱあっと明るくなった。大きい瞳を輝かせ、白い頬が上気し、紅を入れたように赤くなった。

「悠汰さんに会いに? じゃあ悠汰さんのお友達?」

 深瀬は頷いた。それは前者に対する肯定であり、友達、という言葉を肯定したものではない。だが、女性はそうとは気づかずに、嬉しそうに深瀬を家にあげた。

「悠汰さんにはちょっと、買い物を頼んでいたの。もう少しすれば帰って来ると思うわ。リビングで待っていらして。お名前を伺ってもいいかしら」

「深瀬。……松ヶ谷とは中学の頃から縁があって」

 言い訳のように付けたし、深瀬は玄関で乱暴に靴を脱いだ。穴の開く靴下からは親指が覗いていた。心のこもっていない自己紹介でも女性は満足したようだ。深瀬の脱いだ靴をきれいにそろえ、リビングへと案内した。

「で、あんた誰?」

 許可を得る前にソファに腰掛け、偉そうに足を組んだ。彼女は気にする風でもなく、柔和に微笑み、それを隠すように手を口に当てた。

「ごめんなさい。うっかりしてたわ。……つい一月ほど前に結婚したの。まだ式は挙げていないのだけど。だから今は松ヶ谷です。松ヶ谷沙月。旧姓は塩野って言います。悠汰さんの大学の後輩なの」

 訊いておきながら深瀬は興味なさそうに頷いた。沙月は一度、深瀬に会釈をすると奥のキッチンへ消えた。しかし、すぐにマグカップを持って戻ってきた。

「ごめんなさい、紅茶で大丈夫だったかしら」

「ああ」

 どうせ茶の違いがわかるような生き方はしていない。生返事をしながらひったくるようにカップを受けとった。

「もう少しで悠汰さん帰ってくると思うので、ゆっくりしていてください」

 沙月はそう言うとキッチンへと戻っていった。深瀬はその後ろ姿を嘗め回すように眺めた。肩甲骨のあたりで揺れる髪が艶めかしい。

 松ヶ谷のやつ、いつの間に結婚なんか。

 深瀬は小さく舌打ちをし、その音を誤魔化すように紅茶をすすった。思いのほかそれは熱く、舌先をやけどした。

 深瀬は、キッチンで作業する沙月を無言で見つめた。動くたび彼女の髪は揺れる。深瀬は会ったばかりの沙月に惹かれている自分に気づいた。松ヶ谷の妻だからだろうか。羨ましいという思いの一種だろうか。視線はずっと沙月から離せずにいた。

 美しい。そんな言葉が頭をよぎった。確かに沙月は美人だ。だが、その言葉に込められていたのはそういう意味ではない。


 彼女が欲しい。


 気づいてしまった。深瀬は、大きく息をついた。今まで付き合った女はたくさんいた。少し前まで養ってくれていた女も美人で抱き心地がよい体つきをしていた。沙月は清楚というと聞こえはいいが、どちらかというと地味だ。細く、胸も尻も薄い。抱き心地はあまりよくなさそうだ。深瀬の好みとはかけ離れているタイプである沙月のどこに魅力を感じているのか、深瀬は自分でもわからなかった。

 ちびちびと飲んでいると紅茶は冷めはじめていた。独特な苦みが舌のうえに滞る。最後のひとくちを傾けたとき、深瀬は不意に納得した。

 ああそうか。沙月は母に似ている、と。

 深瀬の母は哀れな人だった。

 一流大学を卒業し、銀行員になったが、あるとき深瀬の父と出会ってしまった。彼は外見と人当たりだけはよかった。母は銀行を辞め、父についていってしまった。そこからは堕落の一途をたどる。

 彼女も長く、美しい黒髪を持っていた。

 意図せずに、深瀬は音を鳴らして貧乏ゆすりをしていた。その音に深瀬本人よりも先に沙月が気づき、キッチンから飛んでくると、深瀬の手にある空のカップに視線を落とした。

「気が利かなくてごめんなさい。……おかわりいりますか?」

 深瀬の母も、かいがいしく働く人だった。自分のことを顧みずに深瀬の父につくし、精神が擦り切れてしまった人。

「ああ、もらえるか?」

 深瀬がカップを頭の高さまで掲げると、沙月が手を伸ばし、受けとる。その一瞬、沙月の指先に触った。細く形の良い指。深瀬の全身の血が引いていくのがわかった。

 なにをしようとしたのか。ここは松ヶ谷の家で、沙月は松ヶ谷の妻だ。そう理解していた。

 返す当てのない金を借りに来てはいるが、最低限の道徳は深瀬にも備わっていた。

 翻った沙月の背中に思わず立ちあがり、手を伸ばす。


「ただいま。牛乳と卵でいいんだっけ」

 玄関が開く音と、松ヶ谷の声。深瀬は伸ばしかけた手を静かにおろした。沙月が、おかえりなさい、と言って松ヶ谷に駆け寄る。その様子を無言で眺めソファに座った。身体は深く沈みこんだ。

 深く沈みこみ、静かに息を吐く。

 俺はなにをしにここに来たんだ。

 金だ。女じゃない。

 バッと立ちあがり背後を振り向く。松ヶ谷と目が合った。相変わらず松ヶ谷は背が高い。彼の方が視線は少し高いように思えた。

「まさかお前、深瀬か! なんでお前がいるんだ?」

 松ヶ谷が眉間に皺を寄せた。

「深瀬さんは悠汰さんに会いに来たのよ。私は向こうにいるからお二人でお話してるといいわ」

 沙月は冷蔵庫に牛乳と卵をしまうと奥の部屋にいってしまった。沙月がその場からいなくなったとたん、松ヶ谷の眉間の皺が濃くなった。今にも掴みかかってきそうなほど接近し、小声で問うた。

「なんでお前がここにいる。沙月になにもしてないだろうな?」

「してねえよ」

 触れてはいないのだから、嘘ではない。深瀬は松ヶ谷の肩を軽く叩くと、自らが家主のような態度でソファに座った。その態度も松ヶ谷は気にいらなかった。舌打ちをし、先ほどよりも大きな声をあげた。

「じゃあ、なにしに来たんだ。用がないならさっさと帰れ!」

 深瀬はニヤリと笑い、松ヶ谷を見上げた。

「金」

「は?」

「金がさ、なくて。貸してくれないか?」

 深瀬が言うと、松ヶ谷は、ふざけるなと吐き捨てた。彼の顔が嫌悪でゆがむ。松ヶ谷がこの反応をするのはわかりきっていた。松ヶ谷は自らを律して生きている。同時に他人にも同じくらい律して生きていくことを強要している。

 せせこましい人生だなお前。

 かつてそう言って深瀬は松ヶ谷を嗤った。あのときから六年の月日が流れていたが、お互いがお互いに抱く感情はまったく変わっていなかった。腐れ縁とはよく言ったものだ。切りたくともなかなか切れない鎖のような縁。まだ鎖なら、鉄なら腐敗もしたものを。人間関係はそうはいかない。時間をかけても、他人と縁を結んでも、なぜかいつまでもこいつとだけは繋がっている。深瀬と松ヶ谷はそんな関係だった。

 おそらくどちらかが不慮の自己で明日死んでも、相手に対してなにか感じることはないだろう。ただ、近くにいることが当たり前だったというだけ。もし死んだのならば、それから先は、近くに相手がいないだけ。

「お前は……いつもそうだ! 自分に都合のいいように他人を使おうとする。なんで俺がよりにもよってお前に金を貸さなきゃならないんだ」

 松ヶ谷が声を低くして言う。奥にいる沙月を気にしているようだ。もし、ここが外ならば松ヶ谷は深瀬に殴りかかっていたかもしれない。性格は正反対だが、深瀬と松ヶ谷の性根はまるで双子のように似ていた。

 深瀬も思わず立ちあがった。

「他人なんてそんなもんだろ? 近くにいるんだ、使ってなにが悪い。お前のように自分にも他人にも厳しく生きろって言うよりいいさ」

「なにが悪い? お前みたいに堕落するよりよっぽどいい」

「考えてもみろよ。他人は他人なんだぜ? なんで同じ生き方を強制するかな。自分と他人の区別もつかないのか? だったら他人に頼るでも、自分と他人の違いを理解してるだけまだ俺の方がましだろ」

 深瀬も松ヶ谷もお互い、相手への怒りで顔を赤くする。

 松ヶ谷が、いったん落ち着こう、とでもいうかのように目を閉じ、手のひらを深瀬に向けた。そのまま深呼吸を何度かし、先ほどより落ち着いた声で言った。

「深瀬、帰れ。なんなんだよ。なんで俺のところに来た? 貸すわけがない。わかってんだろ」

 とはいえ深瀬はそのまま帰ることはできなかった。帰るだけの金はあるが、これからなにかを始めることはできない。遊ぶ金ももちろんない。そもそも貯えなどあるはずがない。その日暮らしで生きていることはおそらく松ヶ谷もわかっている。

「ああそうだろうさ。わかっているさ」

 深瀬は他の生き方を知らない。

「どうしようもねえんだよ」

 吐き捨てるように言ったはずのその言葉は、口から出たとたん、弱々しいものへと変わっていった。これでは乞食のようだ。憐れみを求めているようなものではないか。深瀬ははじめて自分を情けなく思った。

 深瀬が俯いたとたん、顔に紙切れが当たった。

「もう帰れ。二度と来るな」

 足元に落ちたのは、一万円札が二枚。深瀬があれほど欲していた金だ。一抹の虚しさを抱えながら深瀬は腰をかがめ、その金を見つめた。意識的に手開き、くしゃっと音をたてて握りしめた。松ヶ谷の、無理に冷静を装っている息遣いだけが聞こえる。

「ああ、……帰るさ」

 深瀬は立ち上がるとそれを丸めてポケットへ入れた。

 無言で松ヶ谷の脇をすれ違い、玄関に向かった。

 目的の金は手に入れた。少しばかりだが、二万あれば何とかなる。競馬に当てるか、パチンコにするか。松ヶ谷にも、沙月にも挨拶する気になれず、無言でドアを開いた。


「つまんねえな」

 ポケットに手を入れ、金の存在を確認する。手汗が滲んだのがわかった。必ず金を貸してくれると踏んでいき、それが叶ったのに、金と同等の喪失感を対価に払った。結局もうけたのかわからない。確実に松ヶ谷が損をしているが、深瀬にはそんなことなど考える余裕はなかった。

 深瀬は駅までの道のりを歩きながら、今後のプランを練っていた。これからどうするべきか。手っ取り早いのはパチンコ。駅前には必ずと言っていいほどあるだろう。健全なのは、アルバイト、あるいはきちんとした職を探し、働くこと。職場に通うためにも金はあるに越したことはない。だが当たり前のように深瀬には働く気などならさらなかった。金は欲しい。しかしそれを使ってやりたいことがあるわけでも、欲しいものがあるわけでもないのだ。


 深瀬は騒音の中にいた。アニメの曲などが大音量で流され、空気の中で混ざる。ひときわ大きく深瀬の耳にとどいたのは、鉄球同士がぶつかることによる金属音だった。

 何時間そこにいたのかわからない。だが、パチンコの誘惑に逆らえずにそこに足を踏み入れたときはまだ日も高かった。深瀬は懐に五万円を入れて外に出たときは、夕陽が見え始めていた。

 深瀬は金が増えた喜びをかみしめ、財布から先ほどの金を抜き取り夕陽にかざした。そこに描かれる顔と目を合わせると、嬉しさと虚しさが胸にこみ上げてきた。

 深瀬の父親もよくパチンコにいっていた。むしろ深瀬以上に賭け事が好きだった。生きることそのものをギャンブルのように考えている節があった。エリートの道を歩み、ギャンブルと遠いところにいた母はどれだけ困惑したことだろう。母は父につくすことに徹した。しかし、子どもへ愛情を向けることはしなかった。まったく関心を持たなかったわけではないが、それは暴力という形でのみ現れた。

 深瀬が母を想うたびに思い出すのは、遠くから見つめた、その美しい黒髪を有した後ろ姿と、頬を張るために飛んでくる細い手だった。

 父親はギャンブルに生きたが、必ずしも運があるわけではなかった。海外旅行にいったきり帰ってこなくなった。飛行機事故があったか、船が沈没したか、渡航先で犯罪にでも巻き込まれたか。だが、それらの確証がないためか、生きていると信じていた。母について、今はどうしているのか深瀬はわからない。帰ってこない父を心配し、日に日に狂気を増す母と共にいるリスクを負いたくなかったために、家を出た。それは十年も前になるか。

 このまま電車で帰るべきなのはわかっていた。駅は目の前にあり、五分とかからない。だが、金を眺めるだけで、その後の行動をすることができなかった。

 帰りたくない。その気持ちが大きかった。

 だが、それだけではない。ちょうどそこに沙月が向かいからやってくるのが見えた。

 母のことを思い出してしまったこのときに、母を彷彿とさせる女が。

 おそらく買い物帰りなのだろう。片手にビニール袋を持ち、肩から小さなポシェットをかけている。

「なんで」

 すでに過去のことだ。それなのに、なぜ母の顔がちらつくのか。

 彼女は近づいてくる。そのたびに母の顔は鮮明になっていく。母はこんな顔だったか。美しかったことだけは覚えている。

 彼女が顔をあげた。距離は五メートルほど。

「あら、深瀬さん」

 背後から夕陽を受ける彼女はこの上なく美しい。白いシャツが朱に染まり、黒いロングスカートは影を落とす。きつく結った髪が、彼女の小さな動きを捕らえ、左右に揺れる。深瀬に声をかけると、沙月は小走りで近づいてきた。

「まだこちらにいらっしゃったのですか? 急にお帰りになってしまって、少し気になってたんです」

 彼女が、なにか言っているが深瀬は聞いていなかった。

 手を伸ばせば触れることができる距離に彼女がいる。

 そのときになってようやく沙月は深瀬の異常さに気づいた。

「大丈夫ですか? どうかなされました?」

 まばたきの回数が明らかに少なくなっている深瀬の顔の前で、沙月は手を振った。だが、反応がない。

 沙月はなんども呼びかけた。しかし、そのどれにも反応を示さなかった。

 よく見ると、深瀬の顔は上気している。夕陽のせいでそう見えるのならばいいのだが、熱中症などという可能性も沙月は考えた。少しでも涼しいところへ彼を連れていくべきだ。

 沙月は、深瀬の腕を取った。

 そのとたん、深瀬の中の、なにかが、切れた。


 腕が熱い。持たれたところから発火しそうだ。

 深瀬は目を見開いていた。目の前に、母がいる。

「あなたはまた俺を叩きますか? お母さん」

 そう、呟くと、深瀬は沙月を押し倒していた。ほとんど今の時間に人が通らないとはいえここが駅の前の道だということも忘れていた。突然のことに沙月も抵抗ができなかった。

 手にしていたビニール袋が地面に叩きつけられ大きな音をたてる。沙月は地面に頭を打ち付け、一瞬意識が遠ざかった。しかし、本能が危険を叫びかろうじて意識を手放すことはなかった。

 深瀬は興奮していた。身体の下に柔らかな丸みを感じる。とても美しい沙月の肉体。彼女に顔に一瞬松ヶ谷の影がよぎり、それはゆらぎ再び母親の顔に変化する。それが背徳感を募らせる。同時に満たされていく支配欲があることも深瀬は理解していた。

 組み敷いた女体を堪能し、その胸に顔を寄せる。懐かしいにおいがした。ささくれた心を癒してくれるのはこれかもしれない。深瀬はそのにおいをもっとよく嗅ごうと沙月の服に手を掛けた。

 なにをされるのか察した沙月が微力ながらも手足を動かし抵抗した。服を脱がせようと必死な深瀬は淡々とを払いのけ、足で動きを制限するように沙月の足を釘刺した。だが、腕は自由だった。沙月は指先に引っかかっているビニール袋を引き寄せ、それで深瀬を攻撃した。とはいえのしかかられている状態では力を入れることができず、かっすった程度だった。

 それだけで十分だった。

「なんで俺を殴る? 俺は親父じゃない!」

 深瀬はビニール袋をひったくると沙月の顔の脇に叩きつけた。とたんに沙月の顔や髪にべたつく液体が飛び散り、甘いアルコールのにおいが立ち込めた。袋の中に入っていたリキュールの瓶が割れたのだ。

 沙月は心底恐怖した。深瀬がなにを言っているのかは理解できない。それでもこんなにも手つきが優しい。怯えすら含んでいる。胸に顔を寄せてくるため表情は見えない。

 深瀬はシャツの首元から手を放した。しっかりと仕立てられた服は容易に割けるはずもない。悩ましくくぼんだ鎖骨をなであげると、服の裾をまくりあげた。沙月は抵抗してこなかった。薄ピンクのレースがついたブラジャーを引き上げると、白い双丘が零れ落ちる。深瀬はそっと手でその曲線をなぞった。手を追うようにして顔を擦り付ける。指先は胸の頂きに到達しようとした。沙月は身震いをし、指先を動かす。そこには割れた瓶があった。

 なにかこの行動にも訳があるのだろうが、夫を持つ身でありながらこれ以上触られるのは嫌だった。深瀬が固執しているのは乳房だ。それくらいならば、これをとってしまいたい。

 沙月は、左手で胸を覆った。深瀬は退かせようと左手のみに意識を向ける。

 そうして深瀬の顔が胸から少し離れた瞬間、そこにできた隙間から右手に持つ瓶の破片を膨らみのすぐ下へと持っていった。白い肌のうえに青みがかった半透明なガラス。それを真横に引くと、赤い線が現れた。

 これでは乳房を切り取ることはできない。

 沙月は所在なく、目蓋をおろした。

 深瀬ははっとした。手の下の肌から赤い血が滲んでいる。

 先ほどまで興奮していた身体は急激に冷え、頭がはっきりしてきた。

 そこに顔を寄せる。乳房から出るものは白いと思っていた。

 深瀬は舌を出し、それを舐めとった。求めていたものはこれなのかもしれない。

 彼は、その血がとまるまで舐め続けた。沙月の血は、甘美な香りで深瀬の口腔を犯した。

「お母さん」

 深瀬は低い声で呟いた。

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女の血 藤枝伊織 @fujieda106

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