旅立ち前夜

 旅立ちの準備を急ぎ、どうにか整え、出発前夜。


 アルバは薄明りの部屋の中で寝台に腰掛けていた。窓からは満月の光が射し込んできており、窓際を淡く照らしていた。物の位置程度なら見えるので、照明器具に火は灯していない。


 アイリは言っていた通りに、一緒に寝るためにラナの部屋へ行った。

 きちんとお別れをしてほしい、とアルバは願う。

 アイリがここに来てから、自分以外で一番長い時間を一緒に過ごしていたのはラナだ。文字の読み書きや計算など『おべんきょう』を教えてもらったり、料理を一緒にしたり、時折いたずらをして叱られたり、甘えて今日みたいに一緒に寝ることもあった。


 それは本当に親子のようだった。


 アイリに親のことは訊いていないし、訊くつもりもない。孤児院――『研究所』にいたということは自分と同じなのかもしれない、と思っているからだ。

 だから、アイリがラナに母親の姿を重ね合わせているのは何となく察していた。

 ラナもラナで、アイリを見る目は普段の男勝りな様子からは信じられないくらい、優しい目をしていた。

 そんな二人の様子を、店のいつもの席から眺めるのが好きだった。


 だから、二人を引き離すことに、心が痛む。


 本当ならラナも一緒に来てほしい。

 そうすればアイリを悲しませることもない。

 けれど、それは自分の我儘わがままだ。

 もう既に、他の冒険者を滞在させるな、という多大な迷惑を掛けてしまっている。店を放り出してついてきてほしい、などとは口が裂けても言えなかった。


 ただ、一つ、気掛かりなことがあった。

 それを伝えないまま、ここを出ていくことはできない。 


 アルバが伝えるべきことを頭の中でまとめていると、部屋の扉が静かに叩かれた。


 ――来たか。


 きしむ音を立てて扉が開くと、その隙間から暖色の光が伸びてきた。その光の主は、小さな燭台しょくだいを手に持ったラナだった。ガウンをまとっていて、そのガウンの色もやはり赤色だった。

 部屋に入って静かに扉を閉めたラナは、燭台を書き物机に置いて、その傍の壁に寄りかかった。


「……アイリは?」

「さっきやっと寝たところさ。ぐずついててね」


 燭台の光に照らされるラナが物寂しく笑った。

 しかし、それも一瞬。すぐさま、ぞくりとするような妖艶ようえんな笑みを浮かべると、


「――で? なんだい、こんな夜更けに呼び出して。この街の思い出に抱かせてくれ、とでも言うつもりかい?」

「……バカなこと言ってんじゃねぇよ」


 アルバの返答に、ラナは目を伏せて大きく溜息を吐いた。その表情は失望か、落胆か。

 アンタだったら別にいいんだけどねぇ、と小さく呟いたのは聞こえていないことにする。


 アルバがラナを呼び出したのはそんなことをするのが目的ではなかった。

 気掛かりなこと――残るラナに危険が迫るかもしれないことを伝えたかったからだ。


 これまで、ラナにアイリについて詳細を伝えていない。それでいいと思っていた。聖都に住んでいるのに、聖教への不信感を植え付けるようなことはしなくていいと思っていた。知らなければ、の手が及ばないと思っていた。

 けれど、やはり奴らはそこまで甘くはなかった。それはブルボ村の宿屋の主人が殺されたことが証明していた。疑わしきは処分する――『機関』のやり方は知っていたはずなのに、知らなければ大丈夫、なんて甘い考えにすがった自分を呪う。

 アイリがここに匿われていたことを奴らが知った時、どのような行動を取るのか。それはこれまでのことから容易に想像が付いた。


「……もう一度だけ確認するけど、ラナさんはやっぱり残るんだよな?」


 アルバの問い掛けに、ラナは目を閉じた。

 静かな部屋に、二人の息遣いだけが聞こえている。


 やがて目を開けたラナは、真剣な面持ちでアルバを真っ直ぐに見つめると、


「――残る。受注待ちの依頼クエストもあるし、私に会いに来てくれる常連もいる。それなのに、店を放り出すわけにはいかないよ。冒険者の店をやるのは、私の夢だったんだ。それは簡単に手放せるもんじゃない」

「……すまない。その夢に厄介事を持ち込んで、迷惑を掛けて」

「謝るなんてよしとくれよ。私はアイリと過ごせて良かったと思ってる。アンタがうちを使ってくれたこともね」


 そう言うラナの顔は微笑んでいた。それを見て、アルバは少し救われた気持ちになる。


「――それで、旅立つ前に私に忠告をしてくれるつもりなんだろ――聖教に気を付けろって」


 表情を引き締め直したラナが言った言葉に、アルバは息を呑んだ。気付いていたのか。

 アルバの驚いた表情を見て、ラナが鼻を鳴らす。


「アンタに説明されなくても、私だってアイリについて色々考えたさ。レッサードラゴンを見張りにしてた事といい、アンタがアイリを異様なほど人目に付かせないようにしてた事といい、アイリには人に知られてはいけない何かがある。じゃあそれが何か」


 ラナはそこで言葉を区切ると、間を置いて、ぽつりと囁くような声で。


「――魔法さ」


 アルバの無言を肯定と受け取り、ラナは言葉を続ける。


「アンタの『』という頼みはさすがに露骨すぎたねぇ。つまり、聖教に知られたくないってわけさ。それで聖教に知られたくないってことはどういうことかって考えた時に、冒険者をしていた頃、聖教の黒い噂――異端審問機関のことを耳にしたことを思い出してね。そこまで思い当たれば、もう答えは一つしかなかったさ。そして、そんなアイリを匿ったことで、うちも標的にされるかもしれない――アンタはそう言いたいんだろ」


 降参だ、とばかりにアルバは肩をすくめた。

 どう説明しようかと思っていたが、そこまで知られているのなら話は早い。

 アイリのこと。機関のこと。『研究所』のこと。危険が迫っているかもしれないこと。アイリを取り巻いている状況を説明する。


 アルバの一通りの説明を聞くと、ラナは大きく息を吐いた。


「――ブルボ村の宿屋の主人がかい……確かにそうなるとアイリを匿っていたことが知られた時、うちも危ないかもしれないねぇ」


 危ないかも、と言いながらもラナの口調は呑気なものだった。

 そして極め付けに、


「ま、その時はその時さ」


 と、あっけらかんと言い放った。

 それにはさすがにアルバも面食らってしまう。


「――はぁっ!?」

「これでも昔は腕利きの冒険者として鳴らしてたんだ。自分の身は自分で守るさ」


 その表情が愉快だったのか、ラナは笑みを浮かべた。

 それを見て、アルバはなぜか安心してしまう。そう思わされてしまうほど、力強い笑みだった。


「忠告は受け取っておくよ。だが、私のことは心配しなくていいさ。アンタはアイリを守ることを考えてやりな」

「――……わかった。ありがとな、ラナさん。アイリのことも色々してもらったし、俺、この店を選んで良かったと心から思ってる。店主のラナさんは美人だしな」


 照れてしまって少し茶化してしまったが、本当にこの人には感謝してもしきれない――そう思ってアルバは頭を下げる。

 顔を上げると、蝋燭ろうそくの火がそう見せているのか、ラナの頬が少し赤い気がした。

 じっと見つめていると、何かを誤魔化すようにごほん、とラナは咳払いした。


「……しかし、聖教に気を付けた方がいいのはわかったけどね。アンタ、セリアを連れてって大丈夫なのかい?」


 空気を変えるかのように訊かれたのは、ごもっともな質問だった。

 セリアは聖教の関係者……どころか思いっきり神官だ。それだけでイレが拒否しそうな気はする。

 ただ。


「まぁセリアだし……」

「……まぁセリアか」


 それで二人して納得してしまう。あの裏表のない真っ直ぐな、冒険者に憧れる女の子が機関に関わっているとは到底思えなかった。

 それに、とアルバは思う。それにセリアは、目の前で使ってしまった【転移】を見た後も自分への態度を変えなかったし、それを今でも秘密にしてくれている。信用して、組織に連れて行っても問題ないはずだ。


 二人してセリアを思い浮かべて笑い合い、それが収まると、ラナは蝋燭がすっかり短くなった燭台を手に取った。


「さて、と。アイリが目を覚ました時に私がいないとぐずるだろうし、私はそろそろ戻ることにするよ」

「……あぁ」


 ――話すべきことは話した。世話になったラナとはこれでお別れだ。


 しんみりと返事を返したアルバは俯いた。その床を捉える視界の端で、戻る、と言ったラナの足が止まっていた。

 それを不思議に思って、アルバが顔を上げようとすると、蝋燭の灯りが消えた。部屋が暗くなる。消えた時の匂いが鼻につく。ギシ、と床が軋む音がする。蝋の匂いを遮って、甘い匂いがふわりと鼻をくすぐる。


 唇に柔らかい物が触れた。


「……餞別せんべつさ。これくらいはいいだろう……?」


 至近距離で掠れた声が聞こえたと思うと、返事をする前にもう一度、唇を塞がれた。


 長くも短くも感じるその口付け。


 やがて、甘い香りが離れていく。


 再び床が軋む音がして、続いて扉が軋んで開いた。


 薄明りの中、影になったラナは、


「……ほとぼりが冷めたら、またアイリを連れてうちにおいで」


 そう言い残して、部屋を出て行った。


 その扉の向こう、もう見えないその影へと。


「――あぁ、必ず」


 アルバは呟くのだった。

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