平穏な日々①

「ねぇねぇ、おじさん」

「おじさんじゃねぇって何回言やぁわかんだよ……」


 『おべんきょう』に飽きたのか、顔を上げたアイリが定位置の席に何をするでもなく座っていたアルバへと振り返り、声を掛けてきた。当然のように、おじさん呼びだ。


 ――アイリを助け出してから、二月ふたつきほどの時が経った。


 その間、アルバが警戒していたようなことは起こらず、アイリと共に平穏な日々を過ごすことができていた。


 しっかりと身体を休め、加えてラナが栄養のある物を食べさせてくれたおかげで、身体はまだ細いものの、アイリは自分の足でしっかりと歩くことができるようになっていた。痩せこけていた頬もわずかながらにふっくらとし、窪んでいた目もすっかり年頃の女の子のように戻っていた。

 そうして見たアイリの顔は、可愛らしい少女そのものだった。目鼻立ちがはっきりしているし、ぱちくりとした二重の目が印象的だ。


 その可愛らしい顔で、きょとんとした表情を作り、


「……『おじさん』はおじさんだよ?」

「だーかーらー、俺はまだ若ぇんだって!」


 痛んでしまっていた伸びに伸びた金色の髪は、さすがに手の施しようがなかったので、バッサリと短くしてしまった。かなりの毛の長さと量だったので相当重かったのだろう、髪を切るとすぐにアイリは男の子みたい、と言うには少し長い髪を振って「かるい!」と、頭が軽くなったことを喜んでいた。その髪に、最近では艶が戻ってきている。


 アルバが声荒げると、やれやれ、と言わんばかりにアイリはこれ見よがしに溜息を吐いて、


「そうやってムキになるのが、おじさんなんだよ」

「……こ、このガキ……!」


 今ではこうして減らず口を叩けるまでに回復したアイリに、つい口が粗野になりつつも、アルバは安堵していた。元気になってよかった。並行して生意気になっていったが。


 今日も今日とて閑古鳥が鳴く赤い小鳥亭。

 カウンターの席に座ってラナと一緒に『おべんきょう』をしていたアイリは、椅子から跳ぶように立ち上がると、アルバの席まで歩いてくる。セリアにもらったお古の黒いフード付きのチュニックがゆらゆら揺れる。身体の線が出ないように着ているそれは、アイリにとって少し大きい。肌着を着ているものの、うっかりすると襟ぐりから中が見えそうになるし、丈もすねまであった。

 アルバの下までやってきたアイリは、用事があってアルバを呼んだはずなのに、言い辛そうに俯いてもじもじとするだけで、口を開こうとしない。

 

「……で、なんだ?」


 アルバが水を向けると、意を決したようにようやく顔を上げ、


「――市場に行ってみたい……です!」


 と、アルバにおねだりをした。瞬間、呆けたように口を開けるアルバだったが、何を言っているのか理解すると、すぐさま渋面になった。

 この二月、アイリは店から一歩も外に出ていない。歩けるようになった今、退屈で仕方ないのだろう。していることと言えば、ラナに『おべんきょう』を見てもらうか、ロッカ・ロットと騒ぐか、セリアに可愛がられるか、自分をからかうか、それくらいだ。それに加えて、食事客が入る時間帯は部屋に戻らされる。

 それでも駄々をねないあたり、自分が置かれた状況を理解してくれているとは思うのだが、やはり不満が溜まっているらしかった。


「市場なぁ……」


 アルバは呟くと、腕を組んで考え始める。

 市場はこの街に於いて、最も人が集まる場所だ。誰がどこで見ているかわからないし、はぐれてしまう可能性もある。面倒事に巻き込まれることもあるかもしれない。もっとも、人が多い分、紛れることも可能ではある。しかし――。


 机の一点を見つめて考え込んでいたアルバは、ふと自分を見つめる視線に気が付いて顔を上げた。そこには期待に瞳を輝かせるアイリがいて、それを見てしまっては断ることはできそうになかった。

 しょうがない、と溜息を吐いた。このまま我慢させれば、ある日突然店を抜け出して行ってしまう可能性もなくはない。それならいくつか約束させて、自分が連れて行った方がまだ安全そうだった。


「わかった――」

「――やったあぁあぁぁーっ!!」


 アルバが頷くや否や、アイリは万歳をしたまま飛び上がって喜んだ。その様子に、強めの口調でただし! と釘を刺す。万歳跳躍がぴたりと止まる。


「俺と一緒に、だ。フードも被ってもらうし、俺と手も繋いでもらう。ちょっとでも危なそうならすぐ帰る。いいな?」

「うん、うんっ!」


 本当にわかってんのか? と心配になるくらいに、喜色満面で頷くアイリに思わず苦笑が洩れる。


「こら、アイリ。市場に行くのはいいけど、まだ途中だよ」


 その様子を見ていたラナが、アイリを叱る。はぁーい……、としょんぼりしつつも、嬉しさを隠しきれない様子の足取りで、アイリはカウンターへと戻っていく。

 その小さな背中を見て、やっぱり甘いよな、とアルバは思う。アイリの身を案じるなら、心を鬼にして首を横に振るべきだろう。それでも、今のようにどんどん感情豊かになっていくアイリに、もっと色々な楽しいことを経験させてやりたいと思ってしまう。辛いことばかりじゃない、と教えてあげたかった。

 アルバは過保護だなぁ、とセリアに言われたことがあるが、自分でもそう思う。


「これおわったら行くからね、おじさんっ!!」

「はいはい、わかったからちゃんとやれ」


 楽しみで仕方がないのだろう、その様子にラナまで苦笑する。アルバはそのラナを見て、心の中で感謝を述べておく。

 ラナはおべんきょうだけでなく、それ以外にもよくアイリの面倒を見てくれていた。男ではできないこともあるので、正直、助かっていた。乗りかかった船だ――いつぞやの言葉が蘇る。匿うだけでなく、アイリの面倒を見ることも込みの言葉だったのか。それとも案外子供好きなのかもしれない。


 まるで親子のようにカウンターで並んで座る二人を見ながら、市場へ行くのなら準備をしておくか、とアルバが立ち上がったその時、


「こんちわ――――――っっ!」


 吹っ飛ぶ勢いで盛大に扉が開き、外套を羽織ったセリアが意気揚々と店に入ってきた。ここのところ妙に元気だが、今日は一段と凄い。


「……扉壊す気かい?」

「ご、ごめんごめんっ。にゃはは」


 普段は何も言わないラナも、さすがに今日のは思うところがあったのか、セリアを半目で睨んで声を尖らせた。久しぶりに怖い。視線を刺されたセリアは頭を掻き掻き謝ると、誤魔化すように笑う。


「……今日は一段とうるさいな、セリア」

「ごめんってばっ。お兄が帰ってくるから嬉しくて、ついっ」

「お兄?」

「うんっ、一番上のお兄ちゃん。ここ二、三年、巡礼の旅に行ってたんだー!」

「――ふーん」


 ――旅に行ってたお兄ちゃん、か。


 その言葉にアルバの表情が一瞬、険しくなる。


「? アルバ、どうしたの?」


 しかしそれも一瞬の事だった。セリアが気付いて声を掛けると、すぐさまその表情は消えた。

 やめよう、と頭を振るアルバは、突っ込まれる前に無理矢理話題を変える。


「いや、何でもない。それより、このあとアイリと一緒に市場行くんだけど、お前も行くか?」

「……いいの?」


 真面目な顔をして、セリアがアイリの背中に目をやりながら声を潜めて訊いてくる。それで、その言葉がアイリを外に出してもいいのか、と問い掛けてきているとわかった。詳しい事情は話していないものの、何か事情を抱えていることを、ラナもセリアも既にわかっている。


「まぁ……大丈夫だろ」

「アルバがいいならいいけど。じゃあ、アイリちゃんがいいって言うならボクも行こうかなっ。いいかな? アイリちゃんっ」


 セリアの元気な声に、振り向いたアイリが首をぶんぶん、と縦に激しく振った。とても嬉しそうだ。アイリはセリアを姉のように慕っている。セリアも満更でもないようで、二人は微笑ましいほど仲睦まじかった。

 ラナもだが、セリアにも大分救われている部分があった。自分一人だけだったら、アイリはここまで明るくなっていないかもしれなかった。


「ラナさんは?」


 セリアを誘っておいてラナを誘わないのも変だろう、とアルバは声を掛ける。

 しかし、


「店を空けるわけにもいかないよ。アンタたちだけで行っといで。セリアは店が混む前には帰ってきとくれよ」

「はーいっ」


 それもそうか、とアルバはそれ以上誘うのをやめた。

 セリアが元気よく返事をするのを背中で訊きながら、今の間に準備をしてしまおう、とアルバは部屋へ戻っていくのだった。

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