『おじさん』

「――助けにきた」


 おじさんと呼ばれたことにショックを受けつつも、アルバが端的にそう告げると、少女の瞳に見る見るうちに涙が溜まって、やがて零れた。


「……ほんとに……?」

「あぁ」


 弱々しく震える声に、アルバは頷く。

 しかし、それを信じられないのか、


「……あの、こわいのは……?」

「何とかした」


「……あしの、は……?」

「もう外してある」


「……たすかる、の……?」

「あぁ」


「……えと……えっと――」


 矢継ぎ早に質問が繰り返される。

 それはまるで、自分が助けてもらえるという事実を一つ一つ確認しているかのようだった。


「……おじさん……?」

「おじさんじゃねぇっつーの……」


 最後に、少女は細い指でアルバを指して訊ね、渋い顔になるアルバを見て微かに表情を緩めた。それを見てアルバは、これなら大丈夫そうだな、と思う。こんな状況でも冗談を言う余裕はあるらしい。……本気でおじさんと思っているのかもしれないが。

 強い子だな、と思った。


「俺の名前はアルバだ。おじさんはやめてくれ」

「……わかった……アルバ、おじさん……」

「わかってないな!?」


 つい大きな声を出してしまうと、少女が笑った。笑い声こそ掠れてほとんど出ていないが、アルバの腕の中で、その身体が小刻みに震えていた。笑いすぎたのか、アイリが咳き込む。

 少女にからかわれたことに、アルバが苦虫を噛み潰したような顔をしていると、


「……アイリ。……わたしの、なまえ……」


 少女――アイリが自分の名前を教えてくれた。

 そのことが嬉しくて、いい名前だな、とアルバが頭に手を置きながら言うと、アイリも嬉しそうに目を細めた。


 弛緩した空気が流れていたが、さすがにそろそろ脱出しなければならない。

 その前にアイリをどう運ぶか考えて、結局背負うことにした。肩に担ぐのはさすがに可哀想に思えたし、松明を持たなければならないので、抱き抱えるのは危険だ。

 服と呼んではいけない布切れのまま連れていくのは忍びなかったので、外套をアイリに纏わせた。ぶかぶかだったが、我慢してもらう他ない。ちなみに、外套の下の革の胸当てが凹んでいた。これがなかったらと思うとぞっとした。気休めではなかったらしい。

 身体にあまり力の入らないアイリを苦労しながらどうにか背負い、その身体を自分の身体とロープで固定して、アルバは立ち上がった。消耗した今の自分でも楽に背負えるほどに、アイリの身体はやはり軽い。

 首元にかかる息がくすぐったかった。

 片手に松明、もう片方でアイリを支え、来た道を戻っていく。その間、アイリは喋らなかった。喋りすぎて疲れたのかもしれない。

 右に曲がっている壁の先、入口から差し込む月光の淡い光が見えてきたところで、松明が消えた。思ったよりも長く燃焼させていたようだ。急に暗くなって驚いたのか、アイリがその身を強張らせたのがわかった。

 しかし、ここまで来れば松明が消えても問題はない。そっと壁から入口を見やると、まだレッサードラゴンが魔術によって痺れているのが見えた。ほっと安堵すると同時に、アルバを緊張が襲う。洞穴から出ていくには、いつ動き出すかわからないその横を通らなければならない。

 いいと言うまで目をつむってろ、とアイリに言うと、うん……、と耳元で声が聞こえた。深呼吸を一つ、覚悟を決めて入口へ歩いていく。

 レッサードラゴンの姿がどんどんと大きくなってくる。麻痺に抗っているのか唸り声が聞こえてくる。動き出すなよ――そう願いながら、洞穴を出てレッサードラゴンを過ぎ――


「――おじさんっ!!」

「――ッ!! おじさんじゃねぇっつってんだろ!!」


 唸る声に目を開けてしまっていたのか、焦ったように耳元で自分を呼ぶアイリの声と、唐突に至近距離で感じた殺気に、アルバは即座に反応した。

 アイリを背負っている為に、無理な回避はできない。それでなくとも、かなり消耗している。普段通りの回避はできない。

 もはやアルバに残された手段は一つしかなかった。

 咄嗟に目に付いた地点に当たりを付け、


 ――間に合え……っ!


「ぐっ……!」


 発動に伴う痛みで、思わず苦痛の声が口から洩れた。間一髪、横から繰り出されたレッサードラゴンの鋭利な爪の一撃をかわすことに成功する。

 だが、十分に集中できなかったせいで目標とした地点からかなり離れた場所に【転移】していた。レッサードラゴンと距離を取れた上に森の中。状況を考えれば悪くはない【転移】先。だが、ただでさえ魔力の残りが怪しかったところに、この想定外の長距離【転移】。アルバの身体が悲鳴を上げる。膝が崩れ落ち、激しい頭痛と耳鳴り、視野狭窄きょうさくが引き起こった。

 それでもアルバは唇を痛いほどに噛み、その意識を手放さない。今ここで意識を失ってしまえば、自分だけではなくアイリも助からない――その思いがアルバの意識を引き留めていた。

 樹に手を突いて、重い身体でどうにかレッサードラゴンへとアルバが向き直ると、麻痺魔術による雷光を振り払ったところだった。その口からは唸り声が轟いてくる。己を麻痺させた自分を警戒しているのか、それともアイリがいるからか、はたまた森の中にいるからか、先般の戦闘ではあれほど突進してきたレッサードラゴンが動かない。もっとも、この睨み合いがずっと続くわけはない。レッサードラゴンが見張っていたはずのアイリがこちらにいる以上、このまま何もしなければ、襲い掛かってくるのは目に見えていた。


 ――ここまでか……。


 観念したかのように、アルバが口から細く長い息を吐いた。このままでは二人とも助からない。

 右手に短剣を握り身体と身体を繋げていたロープを切ると、アイリに降りるように言う。


「えっ……おじさん……?」


 アイリが困惑した声を上げる。その細すぎる足を地に下ろしたアイリはふらつきながらも、樹の幹に手を突くことで何とか己の身体を支えた。

 そんな様子のアイリへ、息も切れ切れに逃げるよう伝えるが、動こうとしない。

 やがて、狭くなった視界の中で、レッサードラゴンが突進の構えを取るのが見えた。

 もはや一刻の猶予もなかった。気を抜けば意識を失いそうになる程の痛みに歯を食い縛って耐えつつ、アルバは緩慢に立ち上がった。

 己に残された武装、自身の状態をわかっていながらも、アルバは決意する。


 ――こいつが逃げる時間くらいは稼いでやる。


「早く行けッ!!」


 アルバの声を合図としたかのように、レッサードラゴンが短く咆哮、地を蹴った。それなりにあったはずのアルバとの距離をあっという間に詰めてくる。

 まだアイリは動かない。身体を動かす体力がないのか、レッサードラゴンにすくんでしまっているのか、それとも一人になるのが怖いのか、アイリは動かない。迫るレッサードラゴンを前に、アルバは思わず舌打ちした。これだから、誰かの世話をするのは嫌なんだ。一人の方が気楽だ。失敗したところで、自分の命を落とすだけなんだから。だが、誰かの世話を――誰かを守ろうとするなら、失敗するなんて許されない。失敗すれば自分だけではなく、その誰かをも巻き込んでしまう。それが嫌だった。もう失敗したくなかった。

 逆手で持った短剣を眼前に構える。背後にアイリがいる以上、レッサードラゴンの攻撃を受けるしかない。捨身で受ければ一撃くらいは受けられるかもしれない。その間に、アイリに逃げてもらうしかない。


 しかし、そこでアルバは予想外の事態に驚愕した。


「――なっ、」


 よく見慣れた自分の外套――今はアイリが纏っているはずの外套が、レッサードラゴンを直視しているはずの視界に飛び込んできた。

 それはつまり、アイリが自分の前にいるということだった。


「おじさん――――!!」


 まるでアルバを守るかのように、両手を広げたアイリが自分の前に立っていた。


「このバカ……ッ!!」


 もはや後のことなど知ったことか。アルバはアイリへ手を伸ばし、その身体に触れようとすると同時に【転移】を発動させようとする。編むイメージはもはやぐちゃぐちゃで、頭痛がさらに激しくなる。これは警鐘だ、とアルバは直感した。身体がこれ以上の発動は身を滅ぼすと告げている。構うものか。それよりも、自分の前でアイリが――女の子が死ぬ方が耐えられない。とは違う。今の自分にはがある。


 だが。


 アルバの手が届くよりも早く。


 レッサードラゴンの凶悪な牙が、アイリに襲い掛かった――。

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