緊急依頼①

 木々の隙間から降り注ぐ月光が、森の中をほの暗く照らしていた。


 ――クソッ、厄介な仕事を押し付けやがって。


 心の中で悪態を吐きながら、闇に溶ける外套を羽織る男は、右手に新たに刃を閃かせる。投擲に適した形状のその刃を指の間に挟み、機をうかがう。

 男からやや離れたところに、大きな影がある。低く唸る四足歩行のその影は、力を溜めるように重心を低くすると、一息に男へと飛び掛かった。

 砲弾と見紛うばかりのその突進を、男は横へと跳躍してすんでのところで避ける。男がいた空間を、その凶悪な牙が抉り取る。横っ飛びしながらも、男は手首の返しだけで刃を投擲とうてきする。狙い違わず影の目へと飛翔した刃は、しかし、影が咄嗟に身を翻して振った尻尾に払われ、鋭い火花を散らしただけで地に落ちた。

 地面に手を突き跳ねて体勢を整えつつ、男はさらに刃を取り出す。残り本数が心もとない上に、未だに有効打の一つも与えられていない。焦りそうになる心を落ち着かせようと、一つ息を吐いた。

 このとの戦闘の経験がこれまでなくとも、男にはわかっていた。この影と自分とでは、相性が悪すぎることを。本来ならば、自分のような【シーフ】が挑む相手ではない。逃げの一手だ。だが今は、影がその背後に守る洞穴ほらあなに用がある。引くことはできなかった。

 

 ――クソッ。


 もう一度、男が悪態を吐いたと同時に、影が再び男へとおどり掛かった――。


 

 話は半日程前にさかのぼる。

 男――アルバがその仕事を引き受けたのは、まだ日が高い時間であった。


 その日もアルバは、根城にしている【赤い小鳥亭】で【依頼クエスト】を受けることもなくだらだらと過ごしていた。赤い小鳥亭は小ぢんまりとした宿屋兼酒場で【冒険者】への依頼の斡旋も行っている、いわゆる【冒険者の店】であった。

 冒険者とは、そういう店に持ち込まれる一般市民や教会、はたまた国からの依頼を受けたり、遺跡探索による拾得物で生計を立てている者のことだ。時に揶揄やゆされて何でも屋呼ばわりされることもある。大抵の冒険者が店で仲間を募り、パーティを組んで行動するのだが、アルバは一人で活動することを好む、少し変わった冒険者であった。

 冒険者には一つの土地に留まり続ける者と、各地を放浪する者がいて、アルバは後者だ。この街【聖都ルフォート】を訪れたのも二年ぶりで、滞在は三ヶ月目に突入していた。その間、受けた依頼は一つだけだった。それ以外は鈍らないように身体を動かすのみで、特に何もすることなく過ごしている。


 アルバが今日も今日とて暇を謳歌おうかしていると、長い赤髪を高い位置で結った長身の女性が、アルバの定位置である、店の片隅の小さい丸テーブルに木製のジョッキを置いた。今日もトレードマークの赤くシンプルなエプロンドレスが良く似合う、赤い小鳥亭の店主【ラナトクス・シタン】――ラナだ。ラナはそこらの店の踊り子に引けを取らない、勝気さを感じさせる美貌とスタイルを持っているものの、そんな顔立ちをしているからだろうか、その性格は男勝りなのが玉に瑕な妙齢の女性だ。もっともそうでもなければ冒険者の店を女手一つで切り盛りなんてできないのだろうが。詳しい年齢は怖くて聞けないアルバだったが、見立てでは自分よりも多少年上だろう、と踏んでいた。

 ちなみに、アルバが赤い小鳥亭を選んだ理由は、美人店主のラナを気に入ったのと、街の端の方にあるこの店があまり繁盛しておらず、のんびり過ごすには丁度良かったからである。あと、部屋が安い。二年前に訪れた時からそれらは変わっていなかった。


「毎日毎日ぼーっとして、よく飽きないねぇ、アルバ?」

「ぼーっとはしてねぇよ。ラナさん美人だなーって眺めてるだけだ」

「……っ、ったく、それをぼーっとしてるって言うんだよ」


 置かれたジョッキに手を伸ばし、口を付けて傾ける。中身のエールを半分ほど一気に飲み、ゴト、とテーブルに置いた。

 朝とも昼とも言える微妙な時間だからか、そう広くない店内には他に客の姿はなかった。だからなのか、ラナはカウンターの中へと戻らず、アルバの向かいの席に腰を下ろした。

 ――――ん?

 ふと何かの気配を感じてアルバは振り返った。店内にはやはり誰もいないが、何故か出入口の扉が微かに揺れている。風だろうか。

 気のせいか、と思うことにして、アルバはエールをあおる。そんなアルバの様子を気にすることもなく、頬杖を突いたラナは呆れたように、


「ぼーっとしてるんなら、依頼をこなしとくれよ。アンタが二年ぶりに戻ってきてから三ヶ月。その間に受けた依頼、一つだけじゃないか」

「金はあるからいいんだよ。そもそもあの依頼は、この店に来るような【レベル】の冒険者じゃ無理だろうな、と思ったから受けただけだ。それに、この店に来る依頼は、駆け出しの冒険者には丁度いいからな、残しといてやらないと」

「ハァ……アンタの腕なら【五ツ星】の店でも引っ張りだこだろうに……」

「……ラナさん、俺レベル5なんだが?」

「アンタのようなレベル5がいるかぁっ!!」


 怒られた。

 本当のことなんだが……、とこぼすアルバは懐からカードを取り出す。それには様々な情報が記載されていて、その中の項目の一つに『レベル:5』と表記が確かにある。ほらほら、とラナの顔先に突き出してみるも、盛大に溜息を吐かれた。何故だ。


「……ったく。ま、うちとしては金もちゃんと払ってもらってるし、別にいいけどねぇ。でも、たまには仕事したらどうなんだい」


 そうぼやいて、ラナさんはアルバの飲みかけのジョッキに手を伸ばすと、中身を空にしてしまう。上下に動く、白くほっそりとしたその喉に思わず目が吸い寄せられてしまった。

 

「――ちょっ、それ俺の」

「はいはい、もう一杯持ってきてやるからみみっちいこと言わない。ついでに何かつまむものも作ってきてやるよ。アンタ、起きてから何も食べてないだろ」

「寝起きに飯なんて食えるかよ。俺は一日一食で十分なんだ」

「……セリアが聞いたら、その寝起きに肉をたんまり食べさせられるような台詞せりふだねぇ……いいから待ってなよ」


 空のジョッキを持って立ち上がり、カウンターの中へ入ろうとしたラナの足が不意に止まる。カウンターに何か置かれているのか、その上を凝視している。

 やがて、ラナはカウンターの中へは入らず、アルバの席に戻ってくる。その手にはジョッキの代わりに、小さな皮袋と薄汚れた封書がある。皮袋の中からは、恐らく貨幣同士が擦れる軽快な音が聞こえてくる。

 ラナがその手の中の物を、アルバへと渡してくる。


「ほら、アンタ宛みたいだよ。……おかしいねぇ、さっきまではそんなのなかったはずなのに」


 それを受け取るアルバを、とてつもなく嫌な予感が襲った。

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