第3話 彼女たちの空洞(下)
「ありゃ、無いな。」
「無い。」
次の日、私と直哉は、新宿南口のスターバックスで呆れていた。窓の向こうを、何も知らない人達が歩いている。皆時々、妙に元気な太陽を仰ぎ見ている。
「別に寝て来いとは言ってないでしょ、とか言ってんの。うちの母親。本気でやんの。」
冷房が効いている店内にいるけど、こんな展開になった私達と、暑い中で歩く彼ら。一体、どちらが幸せなんだろう。
「無いな、無い。」
唐突に、直哉が声を出した。
「別に、客足落ちてるわけじゃ無いのに。」
暑苦しい中を歩く人達は、羨ましげにこちらに目をやる。そうして、また歩き続ける。
「直哉に彼女がいないから、こんな展開になるんじゃん?」
「お前も、都合よく振られてんじゃねぇよ。」
「うるさいし。二ヶ月前だし。意味ないし。」
「あ、今の五・七・五だ。」
「嘘。う、る、さ、…。」
二人で文字数に合わせて指を折る。
「五・八・五だ。」
「違うじゃん。」
私と直哉の悪いところは、時々話が飛ぶところだ。
「とりあえず、勘弁。」
「ってゆうか、ミチコちゃんは彼氏いないの?」
ミチコちゃんは、バツイチだ。直哉が小学校二年の時、離婚した。あのおじさんも、別に子ども目線では嫌な人ではなかった。でも、きっと大人の男女間で見たら、不愉快なことが山積みだったんだろう。
「いい感じの人はいるけど、いきなりラブホなんか誘えない、だってさ。」
自分の子どもには、酷い依頼をしてくるくせに。困った親だ。
「ハツエさんは?」
ハツエというのが、私の母だ。ミチコちゃんが母をそう呼ぶので、直哉もいつしか、私の母をそう呼ぶようになった。
「いないみたい。」
私の返事に、直哉は肩を落とした。
その横で、私は続けた。
「というか、あの人の場合、お父さんがまだ忘れらんないんじゃない?」
続けてから、冷たいナントカ・フラペチーノを飲んだ。
「夫と別れた女の人が、恋愛もしないでずっと一人でいるなんて、それしか考えられない。」
「なるほどね。」
直哉は、アイスコーヒーを飲んでから、ぽつんと呟いた。
「なんか、な。」
どこかにぽっかりと口を開けて黙り込む、空洞みたいな響きだ。
「ね。」
うっかり、私も素直に同調してしまった。
それが、運の尽きだった。
新宿から帰る電車内、私と直哉の携帯電話に、ほぼ同時にメールが来た。
『いつ帰ってくる?ハツエさん親子と、晩御飯食べない?』
『いつ帰ってくる?ミチコ親子と、晩御飯食べない?』
あんまりにも同じ文面だったので、私達は笑ってしまった。
「ナンだよ、このタイミング。」
直哉は、苦笑いしていた。
「女のカン、じゃん?」
私も苦笑いで返した。
『了解、今真弓といる。後十分で着く。』
『了解、今直哉といる。後十分で着く。』
同時に、それぞれの母親へ送信した。出来る抵抗は、それくらいだった。
みなみ屋の近くにある中華料理屋に、私の母とミチコちゃんがいた。二人は、私達のツーショットを見て、楽しそうに笑った。なんだか、私はそれが酷く気に食わなかった。
「本当にお似合いだよね。」
私の母が、私と直哉を見て言った。
「羨ましい。」
横で、ミチコちゃんがぼんやり呟く。
「え、ミチコいい感じの人いるんでしょ?」
「えーっ、でもさぁー…。」
二人は、私達の前でどんな立場であるのかなんて、気にしていないようだ。母も、そして恐らくミチコちゃんも、別々の時はそうじゃない。ちゃんと、母親らしくしている。
「え、いいね、私も始めようかな、テニス。」
でも、二人でいると、どうしても緊張が緩むらしい。母親の恋愛話を聞かされる子どもの気持ちなんか、頭の中から消えるみたいだ。
彼女たちは二人揃うと、私の友達以上に、はしゃぎ、騒ぎ、飲む。
そんな二人の前で、私と直哉は黙って料理を食べていた。ごま油のせいでもなければ、豆板醤のせいでもない胃のムカつきを、私は感じていた。
「やっぱ二の腕たるむよねー、この年だと。」
そのムカつきは、私しか感じていないのだろうか。
確かめたくて、隣にいる直哉を横目で見た。直哉は、黙って五目そばを食べている。口元を動かしているが、その表情は止まっている。彼の気持ちは、もちろんわからない。いくら付き合いが長いからって、そこまで通じ合えるわけじゃない。
こんなに近くにいたって、何も言わなきゃわからないのだ。わかろうと覗いてもわかんないのだ。ましてや、私達の母親は、自分の立場を忘れて話し続けているのだ。わかりっこない。
私の胃がムカムカしているのも、直哉の気持ちも。
それが、余計に私の胃をムカムカさせた。
決定打は、悲しいかな、私の母が打った。
「ねぇ、やっぱり偵察してきてよぉ、面白いじゃない。」
ばかじゃねぇの。違う、ばかだ。
何が面白いんだか、言ってみな。笑ってやるから。
「きゃあ!」
私の母が、正面で悲鳴を上げた。彼女の顔は、水でびしょびしょになっている。私がかけた、コップの水だ。
「何すんの!」
母は酒の勢いもあってか、大きい声を上げた。
「それが母親にすることなわけ?」
は?ばかじゃねぇの。違う、間違えた、ばかなんだ。
テーブルを押して、私は立ち上がった。言葉を、ばらまいた。
「今のあんた達のどこが母親なの?子ども無視して、目の前で調子乗って男の話して、挙げ句、自分の子どもに幼馴染とラブホ行って来い、面白いから、って。」
息を吸うと、喉の表面が凍った。
「で、それのどこが母親なわけ?」
出てきた声は、かさついていた。母の水にぬれた顔が、私を見る目が、記号みたいに見える。ミチコちゃんも、隣にいるであろう直哉も。全部が、単なる記号に見える。
「旦那と別れて、旦那に死なれて、辛いだろうよ?大変だろうよ?でも、あんた達だけじゃないんだよ。あんた達が立ち直るために、私達に迷惑かけられたら、たまったモンじゃないんだよ。こっちは、あんた達なんかよりずっと、長い間傷引きずらなきゃいけないの。そういうの、ウザいんだよ。」
そこまで言うと、急に力が抜けて、私は座り込んだ。自分のムカムカの意味がわかったのと、直哉が私の腕を引っ張ったのが同時だったからだ。座って、私は掴まれた腕と直哉を見た。直哉は、黙って前にある空気を見ていた。そして、言った。
「ありがとう。」
だから、余計に私の力は抜けてしまった。
「すっきりした。」
もう一回、直哉が言った。どうやら、彼も、同じムカムカと戦っていたようだ。
「でも、水は駄目だな。」
直哉の目線に導かれて、私は自分が怒鳴った母親達を見た。顔は青白く、涙を浮かべた目だけが真っ赤で、寄り添っている。酒のせいもあるんだろう。
しばらく、私と直哉は、自分の母親が泣く様子を黙って眺めていた。誰も話さず、泣き音だけが聞こえる。
私は、母の人生を考えていた。
連れ込み旅館に生まれて、人のドロドロした関係やら性欲やらがいつも近くにあって、家業をついで、結婚して、娘を生んで、旦那が死んで、まだ忘れられなくて、友達と傷をなめあって、それで、娘に水かけられて、怒鳴られて、泣いている。
こうして考えると、酷く辛い人生なのだ。日頃一緒に生活している母は、むしろ普通の専業主婦なんかより、遥かに楽しそうなのに。
それとも、今私が母に水をかけたせいで、母の人生は、一気に辛いものになったのだろうか?
そんな事を考えながら母親達を見て、私と直哉は、どちらともなくテーブルを元に戻した。母親達は、ぐったりとうつむいている。私の母の髪から、水が数滴落ちた。
「な。」
直哉が呟いた。私も、同感だった。
新宿で感じたあの空洞の事を思い出す。
思い出す度、ずっとずっと、痛みが増す。
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