第2話 彼女たちの空洞(上)

 最寄り駅の横を、大きな川が流れている。電車でその橋を渡る頃、南口方面の少し先に、緑色の看板が見える。目を凝らさなくたって、よく見えるはずだ。

 濃い緑の中に浮かぶ、白い「旅館 みなみ屋」の文字。


 川沿いに続くもう一本の線路を上流側に辿っていくと、大きい道路を二つ挟んで、赤い看板が見える。「旅館 名残雪」の看板だ。

 そこからもう少し上流に行くと、川と平行に走る鉄道の駅がある。だから、それぞれの旅館は、別の駅からお客さんを獲得出来る。そのおかげで、二つの旅館は近所ながらも共存している。長いこと、ずっと。


 名残雪の息子は、相原直哉という。私と直哉は同級生だ。この直哉の母と私の母は、学生時代に部活の先輩・後輩関係だった。そのため、小さい頃から私達はよく遊んでいた。だから、本人達はお互い親戚なんだろうと、長い間無意識に信じていた。


 私達は、今年の春から専門学校に通っている。私は美容師、直哉は音楽好きが講じて音響の学校だった。


 この年になって、私達は実家の家業の特殊さを実感していた。専門学校の友人は、生まれ育った場所も、環境も、色々だ。だから、皆実家の家業に驚くのだ。驚くだけならまだいい。


「じゃあ、初めてヤったの早かった?」


 なんて、聞いてくる奴がたくさんいる。それって、


「家が八百屋なら、野菜好きなんでしょ?」

「眼科の子だから、もちろん目はいいんでしょ?」


 と同じ次元の勘違いだ。どうしても人参が食べられない八百屋の息子も、コンタクトを入れないと黒板の文字が見えない眼科の娘も、私は知っている。


 私も直哉も、そんな状況にすっかり慣れてしまった。私は、先入観から来る勘違いにあっさり答えて、相手のからかう気持ちを削ぐ、という術を身につけていた。一方直哉は、それを利用して、初対面の人と仲良くなる方法を確立していた。そうやって、戦ってきた。

 別々の学校に通いながら、ふと、私達は単なる仲間ではなくって、戦友に近い気がしていた。


 そうして、夏を迎えていた。


 ある日、母がいつもの調子で言った。

「うちの旅館には、何が足りないと思う?」

 彼女は台所で、そうめんを茹でていた。

「足りない?」

 隣で葱を切りながら、私は聞き返した。


「最近、私とみなみ屋がマンネリで。」


 不思議な物の言い方だな、と鍋の中に目をやった。そうめんが、熱湯の中でうねっている。


「高いラブホは、すごいらしいよ。設備が。」

「へぇ、どんな?」


 お堅い教育関係者が聞いたら、こんな会話を娘とする母親を、きっと責めるんだろう。正直、そんな奴黙ってろって、単純にそう思う。こっちは生きるのに必死なのだ。そのためには、本当は親子でしなくたっていいような会話が、やっぱり必要なのだ。


「でもねぇ…。」


 そうめんをざるに上げた湯気の中、母はぼやいた。

「いくらみなみ屋のベッドが回っても、壁の絵が光っても、仕方ないだろうし。」

 葱を切り終えて、私は言った。母も、それにうなずいた。

「そう。別に私も、みなみ屋の蛇口を金ぴかにして、待合室を大理石で埋め尽くしたくはないの。ここら一体のドロドロしたものの、掃き溜めであるべきだと思ってるから。」


 母の言うとおり、この住宅街にみなみ屋があるためには、みなみ屋が、欲望や情事の掃き溜めとか、駆け込み寺である必要がある。

 歌舞伎町や渋谷みたく、群れになってきらびやかで、光に寄っていく虫をターゲットにしているようでは、やっていけない。


 つまり、それらの街みたく、そのいかがわしさに堂々と自信を持って、あけすけといては駄目なのだ。住宅街に生まれたワケや欲望を受け入れるには、そんな暢気で派手な存在では、どうにもならない。


 確かにうちの家業は、いかがわしいビジネスだ。でも、みなみ屋は、そのいかがわしさを内側に秘めている。だから、妙な存在感があるし、続いている。それは、直哉の実家でも多分同じだろう。


「真弓さぁ、見て来てくれない?」

「へ?」


 そうめんの向こう側の席から、母がいきなり言った。


「どこでもいいから。」

「は?」

「ミチコとも、そんな話してたんだけどね。」


 ミチコとは、直哉の母のことだ。私の母の方が、一年先輩だ。


「やっぱりねぇ、お互い自分の旅館に、何かが足りない気がしちゃって。」


 母は、つるっとそうめんを食べてから、あっさり言った。


「真弓と直ちゃんで、どっかの連れ込みの偵察してほしいの。」


 母とミチコちゃんの悪いところは、二人で盛り上がると周りが見えなくなることだ。

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