カタリとバーグ

千羽稲穂

カタリとバーグ

 黒板に広げられた鳥の絵。赤、白、黄しかないチョークでよくここまで壮大な絵を描いたものだ。茜色に染め上げられた、教室の空気を吸い込んで、感嘆の声を一気に吐き出す。そうすると黒板の絵を描いていた彼女が振り向いた。ボブショートの髪がふわりと浮ぶ。スカートが膝から離れて、太ももがあらわになり、すぐに風を吸収し、下がっていく。

 放課後の空気が僕達の空間を演出する。そこに現れる彼女の才覚に終始ドキドキしっぱなしだった。

 大きな鳥は、ぶしつけながら、素人のアカが拭えていない筆致が伺えたが、その中でもなぜか惹きつけられるものがある。プロの絵を見た時「ああ、美しい」や「綺麗だ」とは感じるが、彼女はどれも感じない。ただこれだけは言えた。

「俺、この絵が好きだ」

 彼女の筆致はどんな美しい絵よりも惹きつけられた。彼女の見ている世界が見たい、とひしひしと欲してしまった。もっと描いてほしいとすら、エゴまみれになってしまう。それぐらいに彼女の世界を欲していた。

 俺の手元にある原稿用紙をその高揚感のもとで、ぐしゃりと握りつぶしてしまう。文の一つ一つに自身の惹きつけられる感覚はない。ただ読めるだけ。プロの美しさも、彼女のような好意的な何かもこの原稿用紙にはない。ずぶの素人の文章が羅列されている。そんなもの、誰が読みたくなるのだろうか。

 次第にエゴと彼女との才覚の差に怯えていく自身がいることに気づいた。もっと自分に何かあればいいのに、彼女のような光が見当たらない。

「ありがと」

 彼女の笑みを、俺は苦々しく受け取ってしまった。ぐっと奥歯を噛みしめて、二人の空気に追い立てられる。

 目の前には天才がいた。分野が異なるが明確な天才だ。落差に怯えて、恐怖し、距離をとろうとしてしまう。明らかな天才がいた時、俺はその作品から身を背けてしまう。もっと暗がりへ。

 カーテンがなびき、陰が僕の視界を遮る。

 その時、

「なんでその原稿用紙捨てようとしてるの?」

 ぴしゃりと彼女の言葉が放たれた。彼女は黒板からこっちにずんずん歩いてきて、俺の原稿用紙を奪い、しわを丁寧に伸ばした。夕暮れの視線が俺の視界を埋め尽くす。まぶしすぎて、彼女を見つめられなかった。喉元に熱い何かがこみ上げてくる。

「見るな!!」

 立ち上がり、罵声を浴びせてしまった。

「いいじゃん。ここは二人の文芸部なんだからさ」

「正確には十人いる」

「もっと正確にいえば二人の部員と、八人の幽霊部員だけどね」

 彼女は熱心に俺の書いた文を黙読する。体を前のめりにして、今にも朗読しそうなぐらい口をぱくぱく動かし、一文一文に目をやる。それは丸裸の俺を彼女が見つめているような感覚で恥ずかしくなる。しかも、才ある彼女が読んでいるのだ。いたたまれない。目を伏せたい。今すぐにこの教室から出て、職員室に退部届を出したくなる。だが、それでは彼女の絵がこの先一生見られなくなるかもしれない可能性があり、踏みとどまった。

 ころっと、彼女の口がなる。キャンディーを口の中で転がしたようなそんな音。空間の緊張感を引き立たせるには十分な音だった。それがまんべんなく教室に響き渡った後、清涼飲料を呑み終わった後のような清清しい表情を見せた。目がうるんでいる。頬が茜色を押しのけて、ピンクに染まっていた。唇を噛みしめて、俺を見つめている。ぐぐっと仰け反り、再び原稿用紙に向き合い、原稿用紙に噛みつかんばかりに掴みかかる。

 彼女が怒るほどのへたくそさだったのだろう。とても見せられる代物ではない。だがそれが俺の今の実力だ。真摯に受け止めよう。そんなノリでじっと彼女のことを見据える。

「く、や、し、い」

 そうして彼女は原稿用紙を胸に抱き始めた。

「悔しいよぉ」

「下手でごめん」

「そうじゃなくって」

 振り返った彼女はすぐに黒板消しを手に取り、黒板の鳥を消そうとした。まだ俺の中に保存されていないそれを、あっけなく。

「待って。待て待て、待てって」

「なんで」

 と、俺の慌てっぷりを見て、すぐに踏みとどまってくれた。一方で鋭い視線が俺を急かす。「えっと、それは……」と、こんなところで俺の臆病者の性質が表れてしまう。彼女の眼光が鋭すぎるのもあった。

「才能って残酷だよね」と彼女はぽつりとつぶやいた。

「それはもっともだけど」

「この鳥をもう消したくなるもん。最高の絵だと思ったんだけどなあ。この文に比べたらへたっぴだ」

「そんなことない。俺の原稿に比べれば絵は最高の出来だよ。消さないでほしいな」

「じゃあ、この原稿も捨てないでよ」

 行間を読むのは得意だったはずなのに、彼女のその一言が来るまで分からなかった。つまり彼女は、先ほどの俺と同様に、才能を感じて、消したくなったのだ。それだけで俺はこの教室から逃げて、海まで走り、夕日に向かって何か叫んでしまいそうだった。彼女が天才の部類のものだからこそ、その言葉は俺の奥底まで重く響く。

「ね、いつの日か、君はプロになるでしょ」

 彼女は俺にとって目上の人だった。それなのに、下手に俺のことを扱う。もっと傲慢でいてほしい。そうしたら、早めに俺は文を紡ぐのをやめれたかもしれない。でも彼女はそんな俺をすくってしまった。平々凡々な俺を、未来へ誘ったのだ。

「プロになったら、私のことを専属の絵師にしてよ。君と一緒に何かしたいよ」

 ボブカットの髪が茜の日差しできらきらと輝いていた。放課後の空気が俺の背中を押す。彼女とありもしない約束をしたくなった。俺には過ぎた約束だ。それでもこんな光栄なことはなかった。俺はプロになると断言してくれている彼女に応えたくなる。

「君も絶対プロになるよ。ううん、売れっ子のイラストレーターに。絶対なる」

 彼女は目にうっすらと涙を浮かばせた。俺の言葉がそんなに嬉しかったのか、声をださず「ありがとう」と何度か言っていた。それを見逃さない。その反応にやはり俺は気恥ずかしくなる。なにより、その瞳は輝いていて、俺にとっては分不相応に思えてくる。体がむずむずと痒くなる。その痒さが湧き立ち、頭に昇り、もう何を考えているのか分からなくなる。

「今からでも君と一緒に何かできるんじゃないか」

 ころん、と再び彼女の口が鳴る。

「何か?」

「うん、例えば俺がキャラの設定を作る」

「それを、私が描く」

 お互いのことを指をさした。

「面白そう」「面白そうだね」

 それから下校時刻になるまで、いろいろ試行錯誤した。キャラの造形しかできなかったけれど、十分なものができた。それも少年と少女の二人。名前は『カタリ』と『バーグ』。お互い満足した。それがあったからこれから向かう戦場の界隈に踏み込むことを決心した。


 俺は今でも覚えている。あの時の彼女の言葉や、戦友としてお互い戦い続けていこうと、励ましあったこと。俺は彼女の絵が好きだったし、彼女は俺の文を好いていてくれた。周囲の酷評をはねのけて、彼女は俺のことを称賛し続けた。

「なんでみんな分からないんだろう」

 なんて、呟き一つはスランプだった俺の心を溶かしてくれた。

 俺もお返しに、意地悪心から「君の絵のこういうところが好きだよ」と正直に言ってあげた。すると彼女は次の週にはこれまでの倍の量の絵を仕上げてきた。

 カタリとバーグもあれから、より詳しくキャラを仕上げた。学生だった俺達は社会人になっても会い続け、カタリとバーグのことを語り続けた。黒板に描き出しただけのラフだったカタリとバーグ。それが今では詳細なプロフィールがずらずら並んでいた。これはないだろう、と笑いあって、ふざけてプロフィールに付け加えたりもした。そこに俺はストーリーをつけた。壮大な世界が仕上がってきた時、互いの仕事が忙しくなり、会う機会がめっきり減った。


 打ち合わせ終わりに、俺はわがままを言ってしまう。

「ひとつだけ」

 俺は一本指を立てた。これだけは何が何でも通そうと思っていた。ここまで来たのは彼女という存在がいたからだ。それに恩返しをしたい。恩返しという名の、俺のエゴなのだが。

「出版する俺の本、表紙を任せたい人がいるのですが」

 茜色の光景が目の前に浮かぶ。あの時暗くなるまでカタリとバーグを作っていた。深く濃く、潜って、時間を忘れて、二人で歩んできた。始まりからここまでは夜空の星が流れるように一瞬の出来事だった。長い長い歩みを、異なる道で進み、そうしてたどり着いたこの場所を、俺は見逃さなかった。

 編集さんは、うんと快く頷いてくれた。

 よかった。これで頷いてくれなかったら、延々と彼女との約束を熱く語ろうとすら思っていたから。

「あの、電話していいですか」

 どうぞ、と促される。

 電話を掛けようと彼女のアイコンを見る。あの頃黒板で描いたバーグがアイコンだった。チョークで描いているため、粗雑さが目立つ。だがそこが良かった。俺の方のアイコンはカタリだった。こちらもあの頃描いたものだった。

 黒板の前で二人でいろいろだしあった。最初に描いていた絵が鳥だったからそれをモチーフにしたものを描こうと、提案したのだ。そうして彼女はチョークをさらさらと動かして、キャラクターを描いた。黒板にひかれた線は抑揚がつけられ、迫力があった。そこから生み出されるものに目が惹かれる。頭が痺れていく。お酒を呑んだような高揚感に酔ってしまう。

「やっぱり君は天才だ」

 彼女は俺の原稿をマスクのようにして、口を隠しながら見せつつ、目を三日月型にさせて、

「君もね」

 その声がよみがえる。

 電話をかけて数秒後、彼女が「もしもし」と明るい声音で応えた。

「ああ、君に頼みたいことがあるんだ」

 また二人で何かできることに、俺は笑みを隠せなかった。

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