物語の7月
ふじの
From Jane to Katary
最後の弔問客が帰ると、ようやく家が家らしい呼吸をはじめた気がした。
みんな、やれやれといった感じでリビングに落ち着いた。
「私、お茶いれるね」
いとこのエミリーがそう言ってキッチンに向かう。おばさんと母さんはたくさんの人に囲まれておばあちゃんのことを聞かれ続けていたからさすがにぐったりしている。もうどんな物語も残っていないという感じだった。
おばあちゃんは英国では有名な児童小説作家だった。おばあちゃんが生み出した赤毛の男の子は、英国中の本屋をどころか、今ではアメリカや日本でも大人気だと聞いた。窓の外にはおばあちゃんの書斎だった離れの部屋が見える。7月の日は長い。ゆっくりと始まった夕暮れが、おばあちゃんの部屋に差し込み、デスクの上に差し込むのが見えた。
「来なかったな」
私の小さなつぶやきを母さんが拾う。
「何?」
「ううん。なんでもない。わたしも、おばあちゃんの部屋の戸締り確認してくるね」
「悪いわね」
母さんとおばさんのすまなそうに顔にちょっと心が痛む。本当は一人でおばあちゃんの書斎に行きたかっただけだった。
だって、わたしにはおばあちゃんとの約束があるから。
夕暮れの始まった庭はとても美しい。庭の木々が1日の最後の日差しに枝葉を存分に伸ばすように日差しを受け止め、その向こうには広々と広がるロンドンで一番広いヒースの丘が見える。そして、書斎からゆっくりとこの景色を楽しむのがおばあちゃんのお気に入りだった。
1年前のあの日。おばあちゃんとわたしはふたりで今と同じような7月の夕暮れを眺めていた。
「あの男の子と出会ったのはね、あのヒースの丘の上なのよ」
おばあちゃんはチャーミングなウィンクをしながらわたしに聞かせてくれた。赤毛の男の子と出会ったときのこと。何度聞いても飽きないとても不思議な物語で、わたしがまだ知らないたくさんの感情がぎゅっと詰め込まれている物語だった。
「ねぇ、それはおばあちゃんの初恋の人?」
そう言うとおばあちゃんの頬は真っ赤に染まった。わたしにもいつかそんな出会いがあるといいなぁ、そう羨ましがるわたしに、おばあちゃんはにっこりと微笑んでくれた。
「大丈夫。クレアにはクレアの素敵な出会いが待っているし、それに……」
おばあちゃんは沈みつつある太陽に目をやった。ヒースの丘を染め上げ、庭を染め上げ、今ではおばあちゃんの書斎も同じように鮮やかな夕暮れに染め上げている光の向こうを見つめていた。
「あなたも彼に会えるわよ。ううん。合わせてあげる。遠い昔に、彼と約束したことがあるのよ、あなたが代わりに渡してくれると嬉しいわ」
そう言って、おばあちゃんは引き出しから本を取り出した。今まで見たことのない装丁の本で、タイトルは書いていなかった。
「新しい本?」
新作なら私だって読みたい。おばあちゃんは大事そうに本の表紙をゆっくりと撫でる。
「むかーし、約束したの。彼と私の物語を書上げるって」
それならおばあちゃんはもうたくさん書いている。私がそう言うと、おばあちゃんはあいまいに首を振った。
「これは特別」
赤い皮の表紙にはうっすらと金の文字が記されている。おばあちゃんの名前と彼の名前が記されていた。首をかしげる私の手をとって、おばあちゃんが私の目を覗き込んだ。真剣な話をするときの眼差しだった。
「1年後の今日。彼はこの本を受け取りにきてくれるの。あなたが渡してくれる?」
「でも、おばあちゃんは?」
そう尋ねた私におばあちゃんは柔らかく微笑んだ。おばあちゃんの初恋の人なんてもうとうの昔におじいちゃんだろうから、会うのが恥ずかしいのだろうか。そう思った。
そして1年後の今日。
あの日と同じように私は一人でおばあちゃんの書斎から夕暮れを眺めている。おばあちゃんから預かったあの皮の表紙の本を抱きしめながら。おばあちゃんは知っていたのだろうか。今日この日におばあちゃんがもうこの場所にはいないことを? ゆっくりと降りてくる夕日は世界を怖いくらいに染め上げてく。
世界中がオレンジ色に染まって、木がぐんと空に影を伸ばし、わたしの家も昼と夜の境目に揺れるようにふるえた瞬間に、男の子の声がした。
「ジェーン! 遅れてごめん!」
眩しい光の中に影のような男の子が飛び込んできた。
「みんな人使いが荒くてさぁ」
そんなことをつぶやく彼の顔は眩しくてよく見えなかったのに、赤い髪の毛がふわりと揺れるのが見えた。
そしてわたしの方に一歩近づく。
「やったぁ! 僕の物語書いてくれたんだね」
不思議なくらいに眩しいのに、彼がにっこりと笑ったのがわかった。わたしに手を伸ばす。夕日の魔法がわたしの体を石像のように固めてしまったのか、ちっとも動けない。でも、これは……
「ダメ! これはおばあちゃんに頼まれた大事な本なの」
ようやく声が出た。
男の子のシルエットがびっくりしたように動きを止める。
「あれ、ほんとだ君、」
夕暮れの光がゆっくりと色褪せて淡い青い色が世界を包み出す。目の前の男の子の顔を最後の光がさすように覆う。彼がゆっくりと両手をあげて、左目に当てて写真を撮るようなポーズをして見せた。
「君も素敵な物語持ってるね!」
男の子の声が弾む。その向こうに、夏のヒースの気配がした。白いワンンピース姿の女の子が彼の前で笑っている。あれは、あの子をわたしは知っている。
彼はわたしの中の何かを読み取るようにしていたけれど、ピタリと動きを止めた。
「そっか……」
男の子の声が少し低くなり、手を下ろして何かに祈るようにそっと頭を下げた。赤い髪の毛、左目の魔法。目の前の彼が誰だかわたしはようやく気づいた。ぎゅっと本を抱えていた腕の力が抜けていく。
「これ、あなたにって」
差し出した本に彼が手を伸ばす。
「ありがとう」
そう彼が言ってようやく顔をあげた。彼の顔を見た! と思った瞬間、窓から強い風が吹いてきて思わず目を閉じる。そして、同時に扉が開いてパッと灯りがついた。
「クレア? 大丈夫?」
母さんだった。すっかり夜が降りてきた庭を背にして心配そうに部屋を覗き込む。
「うん、大丈夫ちょっとお別れしていただけ」
母さんが、泣き笑いのような顔を浮かべてうなずいた。
「そうね。今日はおばあちゃんのためにたくさんの物語が生まれそうね。さぁ、エミリーたちも待ってるからお茶にしましょ」
すっかり夜に満たされてしんと静まり返ったおばあちゃんの書斎をもう一度だけ振り向いた。あの赤い皮の本はどこにも見当たらなかった。そっとドアを締めながら思った。今度はわたしが彼の物語を書いてみたい。いつか、もう一度会いたいな。
物語の7月 ふじの @saikei17253
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