おまけ 滴の秘密
「暇じゃのー」
二度目の
指南書は全て頭に入っている。教育する立場だったこともあって並よりも理解は深いはずだ。
幼児となった今、学ぶ時間はたっぷりあるのに、新しい知識が手に入らない。机の上に両腕を投げ出し、でろーんと力を抜いた。
「おや、
「む……あ、潟!」
脇に樽を抱えた息子が……いや、水理王の側近が、開けたままの扉の向こうから声を掛けてきた。
所作を幼児に切り替えて、目一杯の愛想を振りまいた。
「潟、肩車してあげるよ!」
潟はニコニコと人の良さそうな笑みを浮かべて、幼子の無茶な発言に付き合った。
「滴さま。ありがたいのですが、肩車は潟にさせてくれませんか?」
「えー、タタがしてあげたいのに」
「フフ。そう言わずにお乗りください」
潟は樽を脇へ置き膝を着いた。その首に跨るとゆっくり立ち上がり、再び樽を抱えて歩き出した。当然だが視線が高くなった。
大きくなったものだ。父親似である濃い灰色の頭を掴む。
図らずも再びこの世に生を受け早数年。何の因果か教え子二人の間に生まれ、息子を側で見られるようになった。
理王という職に息子との時間を奪われてしまった。やり直せるわけではないが、それでも息子を側で見守りたいというのが親心だ。
「理王でなければ肩車もお父上がしてくださるのでしょうが……」
雫に……いや、父に肩車を頼むつもりはない。自分が理王だった時代、そのようなことは許さなかった。
「父上は理王だから肩に誰かを乗せたり、背負ったりしないよ」
時々母を抱きかかえていることがあるが、あれは子どもの見るものではないので、見なかったことにしている。
昔は母の方が父を抱えていたようだが、その話も聞かなかったことにしている。
「潟ならいつでも肩車して差し上げますよ」
「タタがしてあげるよー」
「では、大きくなったらお願いしますね」
潟の顔は見えないが恐らく笑ったのだろう。頭が揺れていた。
「ねぇ。潟は何を持ってるの?」
小脇に抱えた樽からはサラサラと音がしている。
「こちらですか? これは塩です」
「塩?」
血の気が引いた。
しかしその性質を利用すれば、目の外傷は塩分濃度を高めれば治すことが出来る。
これ程の塩を抱えているということは、つまり。
「目を怪我したのか⁉」
「はい?」
「大丈夫か? 見せてみろ!」
「しっ滴さま、危ないです!」
潟の目を見ようとして髪を引っ張った。びくともしないので両頬に手を当てて強引に上を向かせようとすると、潟は抵抗してきた。
「滴さま、お止めください!」
「見せるのじゃ!」
「タタッ! 止めなさい!」
重い声にビクッと身体が跳ねた。その衝撃が伝わったのか、潟が樽を一つ落とした。木製の樽は蓋が外れ、真っ白な塩が飛び出した。
「か……母さま」
先代理王が広い歩幅で近づいてくる。後ろに茶色の水精を二人引き連れていた。樽を一つずつ抱えさせられている。
「タタ。何をしている?」
「潟に……肩車をしてもらっています」
「先代さま。私がさせてほしいと言ったのです」
「潟が良いなら、それは構わない」
「先代さま。滴さまは……」
「黙れ」
沸騰しそうだった空気が急に冷えた。母の視線だけで心臓が凍りそうだ。正面からその視線を受けた潟が心配だ。
案の定、飲んだ息が喉で詰まっている。
「タタ。下りなさい」
「……はい」
潟から下りて頭を垂れた。反省しているように見えるだろうと期待を込めてみたが、後頭部に氷点下の視線が刺さり、これはこれでキツイ。
「
茶色い精霊がそそくさと去っていった。抱えた樽はサラサラと音を発していた。潟の樽と同じように塩が入っているのだろう。
……ということは潟の目は関係ない。大丈夫だ。
ホッとして力が抜けた。
「何か言うことは?」
力を抜いている場合ではなかった。母の怒りを鎮めなければならない。
「申し訳ありません」
「何が申し訳ないんだ?」
このままの調子でいくと朝までかかってしまう。
意を決して顔を上げ、母の冷たい視線をまともに受けた。ヒュッと喉がなった。
「潟に申し訳ないのと、お騒がせして母さまにも申し訳ありません」
「どうして潟に申し訳ないんだ?」
くっ……ネチネチとしつこい。母親でなかったら説教しているところだ。誰だ、こんな教育をしたのは⁉
………………わしじゃ!
「潟に危ないと言われたのに、顔を触るのを止めなかったので、塩を撒いてしまいました」
「分かっているじゃないか。なのに何故止めなかった?」
「先代さま。どうかその辺で」
「五月蝿い」
母の圧に潟は果敢に挑んでいるが、それは無駄というものだ。母は在位中よりも理力が弱くなっているが、それはあくまで母の過去を基準にした比較だ。
他の精霊と比較するなら……例えば、
「母さま、潟を責めないでください。タタが悪いんです。潟が心配だったので、危ないと分かっていても止められなかったのです」
「「心配?」」
母と潟の声がハモった。教え子と実の子は通じるところがあるのかもしれない。
「潟が塩をたくさん持っていたので、目を悪くしたと思ったのです」
そこまで言い切れば、母もネチネチとは言わないだろう。案の定、母はそれ以上責めて来なかったが微妙な空気が流れた。
「滴さま……」
「ん?」
「タタ。何故それを知っている?」
発言を戸惑う潟に代わって、母が尋ねてきた。大人二人が幼児を訝しむ目で見ている。
「母さま。何故、とはどう意味ですか?」
「タタが今言ったことは、潟の致命的な弱点だ。知る者は少ない」
しまった!
「えっと……」
「正直に言いなさい。どこから情報が漏れているか確認しないと、潟の身が危ない。場合によってはどこまで広がっているか調査を……」
正直に言えと……。
実は滴の魂は第三十一代水理王・漣のものであると、ここで言えと。
幼児のふりをして……いや、実際幼児なのだが、潟に肩車をさせたり、父や母に甘えたりしていた。その中身が実父或いは師だと知ったら……どんな目にあうか分からない。
「タタ」
「お話中に失礼します。それは私がお教えしました」
添ちゃん!
柱の陰から潟の配偶者が姿を見せた。
「添が教えたのか?」
母がじろりと睨んだ。ただ見ただけかもしれないが、もう睨んでいるようにしか見えない。
「はい。滴さまは分別なく誰彼と話してしまう心配はございません。寧ろ、今後も潟と長くお付き合いいただくために知っていただきたいと思い、伝えしました」
ね、と目をあわせてくる添ちゃんに向かって、全力で首を縦に振った。
「そうか。まぁ、添がそう言うなら良い。タタ、分かっただろう? 口外しないように」
「はい!」
「それと、潟の言うことは聞くように」
「はい!」
やった!
丸く収まった!
添ちゃん、大好きじゃ!
母は息を吐いてから、膝を折り、目の高さを合わせてきた。
「タタ。私も雫も、直接色々と教えてあげることができない。それは申し訳ないと思っているよ。だからせめて
そういう母も父も自分が教育したのだが、この複雑な心境をどう説明したらいいのだろうか。
「分かっています」
「雨伯名代在館大使の名を汚さないように」
「ご期待は裏切りません」
幼児とはいえ、独立した湖を持っている。王館にいるためにはそれなりの理由が必要だ。その理由を与えてくれた
「では私たちは行くが、タタも来るか?」
「どこへ行くのですか?」
「雫が
剃る手で……? 何だって?
「どの程度の濃度差が必要で、そのためにどの程度の塩が必要なのか。記録を取るんだ」
何を言っているのかさっぱり分からない。添ちゃんと潟が注釈をくれた。
「御上の編み出した新しい理術ですよ。電力を用いる理術だとか」
「
「新しい理術…………行く。行きます!」
雫の奴……いや元へ、父上はいつの間にそんな偉大な成長をしたのか。この目で見てみたい。新しい理術を試してみたい。
「では皆で参ろうか」
母に手を引かれ、皆と父の元へ向かう。
ふと添ちゃんと目があった。少し屈んで、曲がった襟を直てくれながら、皆に聞こえないように小声で話し掛けられた。
「大人しくしていてくださいね。義父上」
……努力はするのじゃ。
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