418話 演の帰還

 のべるの姿が見えなくなってしまった。段を降りようとすると、何かに足首を掴まれた……気がした。

 

 勿論、誰もいない。屈んで確認してみても何もない。

 

 ……父上。

 

 この下には父上がいる。僕に、待てと言っているようだ。父上は今回、姿を見せなかった。以前は地下から簡単に現れたこともあったけれど、今回は違った。

 

 見守るという言葉の通り、口も手も出しては来なかった。今もきっと地下から僕の……僕たちの様子を見ているのだろう。


 僕がそうしている内に、闇の中から懐かしいうたが聞こえてきた。

 


 圧せや圧せ

 果てなき闇よ

 この世の行の全てを呑みて

 この世の悪を懲らしめよ


 抱けよ抱け抱け

 偉大な闇よ

 この世の行の監視を務め

 この世の善を護り切れ


 

 うたが終わると、謁見の間に広がっていた闇が正面から闇が僕に迫ってきた。視界は闇のままで避けることも構えることもできず、ただそれを受け止める。壁にぶつかったような衝撃で闇が僕のからだを通り抜けていった。

 

 収縮した闇とでもいえばいいのだろうか。全身に闇を投げつけられたような……とにかく痛い。特に顔が痛い。

 

 咄嗟に玉座の背を掴んで、倒れることは避けられた。

 

 しかし、今度は眩しさに目をヤられた。平常でも眩しいであろう光量に、闇に慣れつつあった目はかなりの痛手を受けた。

 

 両目を片手で覆うと、懐かしいうたが流れた。



 照らせや照らせ

 一の光よ

 この世の行の導師となりて

 この世の悪を戒めよ


 為れよ為れ為れ

 光の筋よ

 この世の行の輝望となりて

 この世の善を繋ぎゆけ

 

 

 また衝撃が来ると思って身構えていた。今度は正面からではなく、上からだった。光の重さに耐えられず、目を瞑ったまま後ろに倒れてしまった。


 歴代の理王に受け継がれる創造はじまりうた。この唄を僕は何度か聞いている。

 

 火理王が火太子を助けたとき。

 土理王が土精たちを助けたとき。

 五人の理王が世界を救ったとき。

 

 そして、この唄を懐かしいと思う理由は……。

 この唄を初めて聞いたのは、のべるが僕を助けたときだ。

 

 正しいルールに生きる者はルールによって守られる。だから僕は涸れるべきではないと、演は後々言っていた。

 

 目を開いても、眩しさに傷つけられた目は謁見の間の様子を見ることが出来ない。

 

 でも、今まで感じなかったのべるの理力を、感じ取ることが出来た。隣にある玉座から、とても強い理力が肌を刺してくる。

 

 相変わらず強い理力だけど、そこまで凶悪な理力だとは思わない。

 

 手探りで座面を撫で、背を掴んだ。

 のべるが……演の魂がここにいる。

 

のべる

 

 返事があるわけではない。背を掴んだ手に力を込めて立ち上がった。玉座の側面に額を付けて、祈りを込める。

 

のべる。僕と……」


 演の苦しみも、悲しみも、怒りも……辛いことは僕が半分引き受ける。

 

 その分、僕の喜びも、楽しさも、嬉しさも、半分あげるから。だからーー。

 

「僕と魂繋してください」

「いいよ」

 

 のべるの返事が聞こえた。幻聴がするほど僕は演を愛している。玉座の背に額を擦りつけた。

 

「椅子と魂繋するのか?」

「え」

 

 反射的に顔を上げた。まだ目は見えていない。うっすらと、人影らしきものが動いている。

 

「私と魂繋するんじゃないのか?」 

のべる……?」

  

 幻聴……ではない?

 

「ベルさま?」

のべるでいいよ。ベルでもいいけど」

 

 影が玉座に着いた。

 

 戻らない視界がもどかしい。椅子の縁を辿って膝を着き、肘掛けに両手を乗せた。横から玉座をじっと見つめていると、人型の輪郭が動いた。

 

「目が見えないのか?」

 

 聞き慣れた声が耳を撫でると同時に、両目に冷たい手が当てられた。

 

 ひんやりと心地よい……のべるの手だ。その手がすぐに外されたのを惜しむ自分がいた。

 

「そんなに見られると照れるよ」

 

 そう言われて、のべるの顔を凝視していることに気づいた。

 

 のべるの顔だ。冷たい手も、女性にしては低い声も、白くて骨が透けそうな指先も全部、のべるだ。

 

 瞳は僕の知る濃い色ではなく、更に、背中に流れる髪も……いずれも漆黒だった。夜空を流れる天ノ川のようだった銀髪は、夜空そのものを思わせる黒髪に変わっていた。

 

のべる……」

「うん」

のべる

 

 名を呼ぶ他に、言葉が出てこない。何かを言う代わりに横から抱きしめた。のべるは首に絡まった僕の腕をなだめるように撫でている。

 

のべる……おかえりなさい」

「ただいま、雫」

 

 鼻を掠める黒髪は、時折向きの変わる光を反射していて、まるで星を取り込んだような美しさを孕んでいる。


「雫、苦しい」

「あぁ、すみません」

 

 抱きしめる力を込めすぎた。でも離したくない。腕の力を緩めるだけにした。演は僕の腕をポンポンと叩き、苦笑しているみたいだった。顔は見えないけど、表情は想像できた。


「雫」

「……何ですか? 離しませんよ」

 

 僕も理王相手に言うようになったものだ。

 でも、折角くっついたのに離されるは嫌だ。演の肩に顔をうずめて離れることを拒んだ。


「分かったから、そのままこっち向いて」


 にやけている自覚のある顔を向けたくない。でも後頭部に冷たい手を当てられて、顔を上げるように促される。

 

 演に巻き付けた腕をそのままに、仕方なく顔を上げた。のべるの顔が近すぎてボヤケている。どうせなら、ちゃんと顔を見ようともう少しだけ顔を引こうとした。

 

 けれど後頭部を抑えられていて動かせない。演が笑った気配があって、冷たい手に力が込められた。

 

 口の端に冷たくて柔らかい感触があって、それが演の唇だと気づくのに時間が掛かってしまった。ビックリして思わず顎を引こうとして、頭を抑えられていることを思い出した。

 

 演の鼻から零れる静かな息遣いとは対称的に、僕の心臓はやかましく脈打っている。心臓が口から飛び出しそうだ。たけど、このまま心臓が飛び出したら演の口に僕の心臓が入ってしまう……などと、おかしなことを考え始めるくらいに、僕の頭は混乱していた。


 演は顔の向きを変え、僕の唇を端から端まで撫でて離れていった。

 

 今度は演の顔がハッキリ見える。きっと僕は間抜けな顔をしているに違いない。でも演から目を逸らしたくない。

 

「熱い、熱い」

「野暮なこと言わないで黙ってなさい」

 

 いつと暮さんの声がした。二人の存在を忘れていた。いることを認識しても、今の僕の頭は演でいっぱいだ。


「私、のべるは、水精・雫とたましいを繋ぎ、生涯の伴侶とすることを誓う」

 

 演に見つめられて、僕から理力がごっそり抜けていき、代わりに新しい理力がドォッと雪崩れこんできた。

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