406話 水没

 僕が氷之大陸オーケアノスにいたのは一日も満たない。それがこちらでは七日も経っていたなんて……。地獄タルタロスではもっとだったから、それに比べれば早くはあるけど、そうさんへの負担は大きい。

 

 用意しておいた水球がなくなるはずだ。漕さんは、よく耐えてくれた。添さんに付いていてもらって本当に良かった。

 

「添さん、ありがとう。漕さんのこと守ってくれて本当にありがとう」

「良かっ……帰っ、きて。良かった、ひっ、良かった……っ」

 

 添さんは声をひきつらせながら泣いている。こんな姿を見るのは初めてだ。いつもしっかり仕事に取り組み、潟を管理している添さんからは想像できない。漕さんの体力に僕がギリギリ間に合って……一気に緊張が解けたのだろう。

 

 それでも漕さんの水球を放さないのは流石だ。こんな時でさえ、任された仕事に責任を持っている。

 

 添さんの背中を擦りながら、ベルさまの理力をヒシヒシと感じた。謁見の間に魂の一部を置いてあるとはいえ、あまりにも強すぎる。

 

 近くにベルさま本人がいるのではないかと探してしまった。勿論、いるわけがない。

 

「添さん、ごめん。引き続き、漕さんのことお願いしていい?」


 添さんはコクコクと首を激しく上下に振って、それから早く行けという仕草をした。

 

 やらなければいけないことがある。


 離れへ向かおうとしたら、水流が出せなかった。何度やってもダメだ。

 

 ここでこうして失敗に時間をかけるより、走った方が確実だ。

 

 添さんと漕さんをその場に残し、謁見の間の扉を乱暴に開けた。重い扉を強引に開けたので、もしかしたら変形したかもしれない。


 謁見の間から出てしばらくすると、足場は雨上がりのようにビショビショだった。晴れているのに寒くて、至るところに水が溜まっていた。

 

 しかも、あり得ないところから水が湧き出ていた。噴水のように湧き出ている箇所が何ヵ所がある。それが地面からなら、まだ理解できる。けど、王館の壁や木の幹から水が湧いている。まるで栓を抜いたかのように勢いが噴き出て、そのすぐ下できた水溜まりを深くしていた。 


 しばらく走ると顔が冷たくなってきた。特に鼻の頭が冷たい。それだけ空気が冷えているということだ。火の王館は無事だろうか。いや申し訳ないけど他の王館を気にしている余裕はない。

 

 離れの屋根が見えた。一部が壊れている。大風に吹き飛ばされたみたいに、中の骨組みが剥き出しになっていた。

 

 この惨状は、ベルさまに何かあったとしか思えない。小康状態だったはずだけど、それは七日も前のことらしい。容態が悪化しているのかもしれない。

 

 だけど、王館が崩れそうな様子はない。理王は無事だ。

 

 大丈夫だ。

 まだ、大丈夫。

 

 そう自分に言い聞かせて走り続ける。

 

 更に近づくと鉢が流れてきた。これは土理王さまが置いてくれた鉢だ。ベルさまの理力を吸収させるために、苗木をいくつも置いてくれた。でも鉢の中身が入っていない。

 

 成長が終わって土の王館に戻ったのか。それともこの水の流れのせいで鉢から出されてしまったか。……悪いけど、その心配をしている余裕はなかった。掴んだ鉢を遠くへ投げ捨てた。

 

 腰の下あたりまで水に浸かるようになった頃、ようやく離れの庭に辿り着いた。壁から水が湧いているように見える。


「雫さま!」

「……っ潟!」

 

 潟が建物の中から出てきた。水に浸かっていてハッキリとは分からないけど、壁の位置から考えて、廊下に立っているのだろう。

 

 すぐそこにいるのに、水が深くなって思うように進めない。腰までだった水は、離れの敷地に足を踏み入れた途端みるみる増えて、今は胸まで浸かっていた。

 

 避けるように命じても、お願いしても、全く言うことを聞かない。理術が使えなくなってしまったのかと思った。つい水球を試しに作ってしまった。


「雫さま、よくお戻りに……御上の真名はお分かりになりましたか?」

「あぁ、分かった! 今、そっちへ行く!」

 

 潟が廊下から飛び降りてきた。勢いよく池に飛び込んだような飛沫と音が上がった。でもここは池ではなく、中庭だったはずだ。潟は廊下の柱を片手で掴み、反対の手を僕に伸ばした。

 

 潟の手を取り、地面を蹴って、半ば泳ぐような格好で廊下に上がった。潟は僕のからだを押し上げ、後から自分も上がってきた。

 

 それでもくるぶしまでは水に浸かっている。潟も僕もずぶ濡れだった。

 

「何でこんなことに……ベルさまは?」

 

 ベルさまはこの奥だ。ベルさまの強い理力をビシビシと感じる。強いという言葉が貧相に思えてしまう。強力というよりも暴力的な理力だ。

 

 足早に……といっても水に進みを邪魔されつつベルさまのいる部屋へ向かう。水だけでなく、色々な物が流れてくる。盆や湯呑みといった小さなものから、恐らく箪笥の一部であったであろう引出しなど、行く手を阻むものが多い。ベルさまがそこにいるのは分かっているのに、なかなか辿り着けない。

 

「三日前から急に御上の理力が強くなったのです。そのときに屋根が吹き飛びました」

 

 それはきっと、本体が増えたからだ。氷之大陸に残っていた本体が合流したのだろう。 

 

「本館の一階がすでに浸水しています。このままですと、本日中に水没するかもしれません」

 

 水の王館が水没とは洒落にならない。

 

 ベルさまのいる部屋に辿り着いた。僕がかつて過ごした部屋だ。開けようとしたら水圧で膨張しているのか、全く動かなかった。下手に壊して中にいるベルさまを傷つけることもしたくない。


「離れの周りに、できる限りの土壁を立てていただいたのですが、焼け石に水というか……」

 

 この水の量なら焼け石も無力だろう。潟の表現は逆にややこしかった。

 

「潟」

「はっ」

 

 潟は何とか開けようとして、入り口をガタガタ言わせている。その時、遠くから破裂音が聞こえた。水の王館ではない。もっと遠くだ。潟の肩に手を置いて動きを止めさせた。

 

「何の音だ?」

「……恐らく火の王館かと」

「火の王館?」

 

 まさか……どこからか襲撃されているのか?


「暖を取るため、そこかしこに火をつけています。木の王館へ燃料の応援を要請していましたが、木精はカオスの被害が大きいので、数が足りないのでしょう」


 僕の顔を見て潟が説明してくれた。燃やせるものが何もないと火の効果は持続しない。火精なら単独で炎上させることも出来るだろうけど、劣悪なこの状態でそれを実行するのは難しいだろう。

 

「潟。確か、備蓄してある油があったよね。それを火の王館へ届けてほしい」

 

 この状況でお使いを頼む僕は、かなりひどい上役だと思う。 

 

「灯り用の油ですか? それは……一階の資源室にありましたが、既に水没しているかと」

「違う。厨房にもまだあったはずだ。薪も手をつけていないのがあったと思う」

 

 昔は毎日、ベルさまの食事を作っていた。その頃の残りがまだあったはずだ。 

 

「あと二階の空き部屋に、処分する書類をまとめてある。それも多少は燃やせると思う」

 

 侍従時代に整理しておいたものだ。部屋の半分を埋めるくらい大量にあって、一度に処分できないから、少しずつやろうと思っていたものだ。自分が太子になったら全く手をつけていない。

 

「かしこまりました。ですが、雫さまをおひとりにするわけには」

「ひとりじゃない。ベルさまがいる」


 潟が困った顔をした。返答に悩んでいるようだ。

 

「僕は、今からベルさまと魂繋する」

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