404話 その名は演
僕がベルさまの真名を呼んだ……?
言った覚えがない。そもそも真名を知らないからここまで来たのだ。知らないのに何故呼んだことになっているのか。
「思った通りに……なりました、ね」
解凍された澗さんがのそのそと動き始めた。水浸しの床で起き上がるのに苦労している。何度も足を滑らせていた。
人型に戻った玄武伯の隣を通り抜けて、澗さんの元へ駆け寄った。玄武伯の視線を感じたけど、止められることも追われることもなかった。
「澗さん、立てますか?」
「立てません。足が折れました」
「冗談はいいですから立ってください」
ずぶ濡れの背中を支えて立つのを助けた。ついでに乾かしてあげようかと思ったけど止めておいた。また余計なことをして玄武伯の怒りを買ったら最悪だ。
玄武伯の怒りは……収縮していた。ただ、根底ではまだ怒りが沸々としているようだった。氷之大陸を汚した僕のことを許してはいないだろう。
でも今は、諦めが勝ってしまって、僕を責める気力がないようだ。
「淼さまはきっと御上の真名を仰ると思いました」
「ベルさまの真名って……」
澗さんと僕の横を玄武伯が通り過ぎた。ずぶ濡れだった澗さんも、水が溜まっていた床も、玄武伯が歩いたところから乾いていた。
玄武伯が椅子に辿り着く頃には、広間はすっかり乾いていて、何事もなかったかのように思えるくらいだった。ただ破られた窓だけが異質さを放っている。
「
罰の宣告をするような重々しい声で、玄武伯が呟いた。
「ノ……ベル?」
「御上の真名は
……そう聞いた瞬間、水が悠々と広がっていく光景が頭に浮かんだ。
昼は太陽の光を反射して。夜は星の瞬きを取り込んで。
どこから湧いているのか定かではないけれど、いつまでもどこまでも、止まることなく流れ続けている。
「『ただ、ノベルさまと魂繋したい』と仰ってましたよね」
澗さんの目は嬉しさを抑えきれていなかった。
それは正しく言うと『ただのベルさまと魂繋したい』だ。蛇に首を絞められて、途切れ途切れだった言葉が、良いはたらきをしてしまったらしい。この場合、玄武伯の蛇に感謝するべきだろうか。
「…………誠に淼どのは、
玄武伯は深い深いため息をついた。どこにも振り下ろすことの出来ない剣を、無理矢理握らされているみたいだった。
「玄武伯。僕がベルさまと魂繋することを許してくれますか?」
「他人の魂繋に口を出す気などない」
この期に及んでまだ他人だと言い張るのか。
「同意しかねるとしたら滅び行く理王を……いや、精霊を助けることである」
「しかし、父上。
澗さんが玄武伯に食って掛かった。
それは、いつだったか僕が言われたことだ。
涙湧泉は涸れるべきではないから助けたと。
「淼さまが御上の真名をご存じなら、淼さまは御上と魂繋することが出来ます。今、淼さまが、御上の真名を呼んだと
澗さんが捲し立てる横で、僕は悩んでいた。
面白くないだろうけど、玄武伯は眉すら動かさない。ゆっくりと
「もはや私が反対する理由はない。魂繋でもなんでもお好きになされるが良い」
玄武伯が手を下ろしながら、指を振ると人型の精霊が入ってきた。椅子の近くに隠し戸があったらしい。玄武伯が小声で何かを命じると音を立てずに退出していった。
澗さんが僕の手を取ってぶんぶんと上下に振った。肩が外れそうな勢いだ。
「淼さま、おめでとうございます!
認められたと言って良いものか……。腕を振られたまま玄武伯を見ると、目を逸らされた。これは認めたくないけど認めてくれたということで良いのか。
「これで御上を助けられますね。早くお戻りください。ご案内しますよ!」
そうだ。こんなにのんびり喋っている場合ではない。一刻も早く王館に帰らないと……。
澗さんが僕の腕を掴み直して引っ張ろうとした。
「まぁ、少し待つが良い」
玄武伯から制止の声がかかった。まだ何かあるのか。
「父上。いくら氷之大陸でも理には従わねばなりません。氷之大陸は
「分かった分かった。そうではない。今さら淼どのを引き止めようとは思わぬ」
玄武伯がそういい終えると、先ほど指示を与えた精霊が戻ってきた。両手でお盆を持ち自分の頭よりも低くならないように気を使っている。腰を痛めそうな姿勢だ。
「
玄武伯の言葉を受けて、盆が僕の元へ運ばれた。盆の上には白い塊が乗っていた。折り畳まれた
「これは何ですか?」
「
受け取りながら思わず玄武伯の顔を見てしまった。玄武伯の言葉が『御上』ではなく、『あの子』に変わっていて、せっかく貰った盆を取り落としそうになった。
「玄武伯……ありがとうございます」
玄武伯の気遣いにちょっと感動した。素直に感謝を述べると、玄武伯はゆっくり首を振った。
「喜ばれるのはまだ早い。魂繋したところで御上と淼どのが無事でいるかどうか、そこまでは分からぬ。御上の理力が大きければ大きいほど淼どのに負担をかけることになる」
「でも僕の負担が増えれば、ベルさまが楽になります。きっと大丈夫です。ベルさまを助けます!」
澗さんが手で顔を扇いでいた。
「淼さま。お戻りください。御上が待っているのでしょう?」
澗さんが僕の背に手を置いた。達成感に満ちた顔をしていた。
「澗さんはどうなるんですか?」
「私?」
澗さんが玄武伯を見上げた。
「私のことは父上にお任せです。大丈夫、命までは取られませんよ」
「でも……」
「嘆きの川の言うとおり、所定の幽閉期間が過ぎるまで謹慎を継続する。その点についてはご心配召されるな」
心配するな、といいのは言い換えれば口を挟むなということだ。これ以上は自治に関する問題だ。
僕が出る巻くではない。澗さんの身が保証されているなら、とりあえずは引くべきか。
「玄武伯、
「淼どの。
「……むす……」
今度こそ盆を取り落とした。
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