381話 静かな寅
小さな部屋とはいえ、天井まで届きそうな
こんなに大きな寅を見たことがない。いや、そもそも寅を見たことが初めてだ。
水精は魚や水鳥など水棲生物を本体に持つ者が多い。母上は
でも養父上は空に住む龍種だ。それにベルさまの四人の兄上も皆、立派な龍だと養父上が言っていた。
必ずしも水棲の生き物であるとは限らない。それは分かっている。ただ、ベルさまが陸上生物である寅だということが意外すぎた。
ゆっくりとした揺れで
自分の口からほっと息が漏れた。顔が見えなくても、理力はベルさまの理力そのものだ。人型でなくてもベルさまはベルさまだった。
「ベ……」
起こそうとしたのか、撫でようとしたのか、自分でも分からない。手を伸ばしたのは無意識だったと思う。固そうな銀毛に触れる直前、手首を木理王さまに掴まれた。
「触らない方がいい。その手……悪化するぞ」
木理王さまは僕の手をひっくり返した。手のひらが赤くて腫れている。指の間に挟まっていた銀髪は、いつの間にかどこかへ消えていた。
「水精の太子でさえその怪我だ。正直、麿もこれ以上近づきたくない。さっきまで土理が一緒だったから、まだ良かったんだけどな」
木理王さまは額に汗をかいていた。束ねた髪の間からうなじが見える。首にも汗をかいていた。
これだけ王館が冷えているのに、木精にとっては暑いのか?
「気を悪くしないでほしいんだが、今の水理は理力の
「化け物……」
木理王さまにベルさまを非難する意思がないのは分かる。でも愛する方を化け物と言われて心地よいはずがない。
「言い方が悪くて申し訳ないが、他に適切な言葉が見当たらない。……少し見ていろ」
木理王さまは自分の髪を一本引き抜くと、フッと息をかけた。指先に挟まれた髪が、団扇になりそうなほど大きな葉に変わった。
それを寅へ向かって被せるようにそっと投げた。すると葉は一瞬で凍りつき、バラバラになって碎け散ってしまった。あとには何も残っていない。氷と一緒に葉も蒸発してしまったようだ。
瞬きをしていたら何が起こったのか分からなかっただろう。それほど短い時間で一連の事象が起こった。
「水の理力に生かされる木でさえこれだ。自分で言うのもどうかとは思うが、木理王である麿の葉でさえこの始末。……近づけ過ぎればあの子達は一瞬で枯れるだろう」
木理王さまは廊下の鉢植えたちを指差して言った。付かず離れずの距離が良いというわけか。
「焱から聞いた話だが、王太子選考会の時も理力を垂れ流して歩いていたそうだ。だが今回はその比ではないらしい」
潟も言っていたけど、廊下の端の角を曲がってくる辺りから、ベルさまの理力が近づいてくるのが分かったそうだ。
「恒山からの反動にあったと聞いたが、そうなのか?」
返事をしようとしたら口がカラカラに乾いていた。どうやら部屋に入ってからずっと口を半開きにしていたようだ。木理王さまが落ち着かせるように背中を擦ってくれた。
「虹色の水……みたいなものがベルさまにかかって、でもそのときは平気そうでした」
「虹色の水か。麿も分からないな」
木理王さまも頭を捻っている。
「ベルさ……いえ御上は、どうなるのですか?」
「……
こういう話は伝わるのが速い。
でも木理王さまの目が泳いだ瞬間を、見逃すわけにはいかなかった。木理王さまは僕と目があうと、何もない壁の辺りに視線をずらした。
「正直羨ましく思う。あぁ、勘違いするなよ。決して嫉妬などしていないからな。水理と結ばれたいなどと思ったことなど一度もない。麿には魂を結ぼうと思った相手がいないという意味だぞ」
木理王さまは明らかに早口になっていた。話を逸らそうとしている。
「ベルさまはどうなるのですか?」
もう一度、同じ質問を繰り返した。
時間が経てば大丈夫だと言って欲しい。
木理王さまはグッと唇を噛んで眉間にシワを寄せた。
「もう分かっているだろう?」
「大丈夫ですよね? 助かりますよね?」
「雫」
両肩に手を置かれた。落ち着かせようとしてくれているのは分かる。でも落ち着いていられない。
こんなに大きな声で騒いでいるのに、寅の姿をしたベルさまは一向に起きる気配がない。
「先代の
突然、何を言い出すのかと思った。先代の木理王さまが倒れたとき……一命をとりとめることは出来た。
「ベルさまも助かるってことですか?」
そうあって欲しい。そう答えて欲しい。
「役目というものは
「許すって何をですか?」
ベルさまは大丈夫かと尋ねたのに……会話が噛み合っていない。
木理王さまは僕をベルさまの側から引き離した。部屋から引っ張り出されて廊下で向き合う形になった。
「雫。即位の準備をするんだ」
ピシリとその場が凍りついた。
文字通り凍っていた。廊下の鉢植えも、庭に溜まっていた水も固まっている。
木理王さまが息を飲んだ。僕の肩から手をおろして、ブルッと身を震わせた。吐く息が白かった。
「雫もそれだけの覇気があれば即位には問題ないな。水理の
「嫌だ」
「だろうな」
僕の失礼な物言いを木理王さまは咎めなかった。
悲しさとか、恐怖とか、悔しさとか、怒りとか……色んな感情がぐるぐる廻っている。
「今の水理が太子を指名することは出来ない。だが太子不在より理王不在の方が問題だ」
火理王さまが当時の木太子に述べた言葉だ。僕が同じことを理王から直に聞かされることになるなんて……当時の僕が予想出来たはずがない。
理王の座は一瞬たりとも開けてはいけない。王館が崩れてしまう。ただでさえ
ベルさまならどうするのだろう。
ベルさまが僕の立場だったら、何を思うのだろう。
「というのが木理王としての意見だ。だが、先代木理王のときとは少し状況が異なる」
木理王さまはわざと明るい声で言った。それがかえって現実を意識させるものだった。
「あのときはかなり危機迫っていたが、今は若干の猶予がある。その間に対処法を考えることが出来れば……あるいは」
「対処法というと?」
ほんの僅かな期待を込めて木理王さまに聞き返した。
「すまない……そこまでは。何しろ理力過多などほぼ前例がないからな」
具体的な方法はない。答えは予想通りだった。
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