380話 離れで
離れにはしばらく足を踏み入れていない。でも行き方は足が覚えている。本館から離れは何度も往復した道だ。不思議と水流移動しようとは思わなかった。走った方が早い気がした。
今、離れはどんな状態になっているのか。泥と汢に手入れをしてもらってから、潟を休ませるために一回使ったきりだ。
「……っ!」
途中で
あっという間に膝まで沈んでしまった。一本ずつ足を引き抜いてもすぐに沈んでしまう。引き止められているみたいだ。
「
命令ではない。理術でもない。お願いだ。ぞんざいな頼み方になってしまったのは急いでいるからだ。
「邪魔だよ」
水分がサッと両端に避けて、土が固くなった。足を地面から引き抜いて、重くなった服から土を軽く払った。
再び走り出すと、足をついた場から水が避けて行った。ぬかるんだ土が固まり、格段に走りやすくなった。僕の進路を予想して水が道を開ける。
あっという間に離れが見えてきた。外観は記憶にある通りで、急に懐かしさで満たされる感じがした。
でも、そこから漏れる理力は異常だった。離れを囲む地面は水浸しだ。敷地に足を踏み入れると、足首まで浸かってしまった。
庭にある水場は元の面影を残していない。恐らく水圧に負けたのだろう。破裂したあとがあり、無惨な姿になっていた。
僕が独占していた水場だ。毎朝ここで顔を洗うところから一日が始まった。今は……制御できない噴水のようだ。顔を洗うことは出来ないだろう。
止まれと命じれば止まるだろうけど…………危険だ。ここの水を止めれば、きっと別の場所で噴き出すだろう。
「雫か?」
縁側に木理王さまが立っていた。両手に盆を持っている。
「木理王さま」
一応の礼として跪こうとしたら、木理王さまが盆を放り出して縁側から飛び降りてきた。腕を掴まれ、膝が着く前に止められた。
「麿と君との間に礼は不要だ。それに誰もそんなことを気にする輩はいない」
「そういうときほど誰が見ているか分からないぞ、木理」
更に奥から土理王さまが顔を出した。今度こそ膝を着こうとしたら、木理王さまが思ったよりも強く腕を掴んでいて動けなかった。
土理王さまの侍従に挨拶を注意されたことがある。同じ過ちを繰り返したくない。ベルさまが悪く言われてしまう。
「まぁ、文句があるものは余に言えば良い」
今日は、土理王さまの後ろに控える精霊は一人もいない。それでも土理王さまは誰にともなく声高に宣言した。
「雫。よくここが分かったな。土理の予想通りだ」
「……木理。根腐れをおこす前に上がった方が良いぞ」
僕の足も木理王さまの足も水に浸かっていた。僕は平気だけど、木精に過ぎた水は良くない。水草ならともかく木理王さまは
縁側へ木理王さまを押し上げた。僕もそのあとに続いて上がり、二人分の足を乾かした。
「雫がここへ来るかどうか、話していたところだ。土理が雫ならきっと来ると言っ」
「余計なことを言うな」
木理王さまの言葉を遮って、土理王さまはプイッと後ろを向いてしまった。
「木理王さま。ここに御上がいませんか?」
「いる」
「即答するな、木理」
後ろを向いたばかりの土理王さまが、またすぐに振り向いた。木理王さまが困ったように笑っている。
「雫をここに呼ぶか、それとも玉座近くで待機させるか……理王の間で意見が分かれてしまってな。結局は雫の行動に任せるということで一致した」
「どこにいるんです?」
失礼極まりない話だけど、理王たちの事情なんてどうでも良い。僕はベルさまに会いに来たのだ。
「その前に水太子。余らが何故ここにいるか聞かないのか?」
「まずは……ベ、御上に会わせてください」
「会ってどうする? 理力過多で倒れた水理王をどうする気だ?」
土理王さまの言うことがいちいち正しい。でも僕が間違っていても良い。もし会わせないと言われたら、土理王さまを物理的に避けさせてしまうと思う。
「土理」
木理王さまが土理王さまを制した。僕に気を使ってくれたのだろうけど、僕としては早くそこを避けてほしい。
「会いたいだけです。治るまで側にいます」
側に付き添ってあげたい。手を握ってあげたい。
土理王さまは表情を変えずに僕を見上げていた。やがて諦めたように目を伏せ、僕たちに背を向けてしまった。
「……めでたい頭だ。余は帰る」
「あぁ、お疲れだったな。少し休むといい」
木理王さまが同僚に労いの言葉をかけた。それを土理王さまは鼻で笑った。
「こっちは、どこぞの馬鹿が罪人を土の王館に寄越してきたせいで休む間もない」
「土理を信用してのことだろ。
木理王さまがそう声をかけると、土理王さまは水浸しの庭へ下りて、土の中へ潜っていってしまった。
「雫」
「はい」
木理王さまが改まった口調で僕に視線をあわせた。
「水理王に会いたいそうだが……状態は理解しているか?」
理力過多で
慣れ親しんだ部屋の前に、見慣れないものがたくさん置いてあった。大きめの鉢植えがこれでもかというほど並んでいた。蹴らないように歩くのが大変だ。
「これは皆、再生を待っている者たちだ」
「戦いの前に集めていた枝や種ですか?」
「そうだ」
それが何故ここにあるのだろう。木の王館で
保存されるべきではないか。
木理王さまは手頃な苗木に手をかけて、丁寧に土から引き抜いた。
「見えるか? 根がしっかり張っているだろう? ついさきほどここに運び込ませたばかりだ。普通、ここまで根が張るのに数日かかる」
木理王さまは慣れた手つきで苗木を戻して優しく土をかけた。
「あの子もそうだ。種を撒いたのは今朝だ」
木理王さまが指差した鉢は、黄色い花が満開になっていた。一部はすでに散り始めていて、中心に実のようなものが見えていた。
「水理から溢れた理力を吸わせた結果だ」
昔、僕が過ごした部屋の前で足を止めた。大きな鉢に木が育っている。狭い廊下には不似合いだった。
「土理が土を盛って水理の力を出来る限り抑えてくれた。それで麿たち木精が可能な限り吸収している。それでやっとここまで落ち着いた」
かつて自分が過ごした部屋に案内されるのは不思議な気持ちだ。入ろうとする僕に木理王さまはそっと手をかけた。
「間違っても泉の水を飲ませることはするなよ。雫の水は回復効果があるが、今の水理に投与したら逆効果だ」
「分かりました」
素直に返事をすると、部屋へ入るよう促された。開かれた部屋は、見慣れた家具や寝台が置かれたままだ。
「ベルさま……」
そっと呟いても返事はない。
寝台にベルさまはいなかった。その代わり、床に巨大な生き物が横たわっているのが確認できた。狭い部屋とはいえ、床が見えないほどの巨体だ。
暗い部屋に光が射し込むと、その姿が鮮明になった。
獰猛な爪が隙間から見える。
長い尾を足の上に乗せている。
光を反射する銀の毛が眩しい。
その銀毛の上を這うように黒い毛が縞模様を作っている。
銀毛の
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