終章 一水盈盈編
378話 現実逃避
寒い。
執務室の空気が冷たい。それに湿っている。この室内だけではなく、王館全体が冷えている。
水精の僕がここまで冷たさを感じるのだから火精はもっとだろう。真上に太陽が昇っていても全く暖かさを感じない。
水の星では氷河期というものがあったらしい。水の星全体が寒さに震えていたという時代らしいけど、寒さが王館だけで収まっている分、まだマシなのかもしれない。
「雫さま、お着替えをお持ちしました」
潟が僕の装束を持って入ってきた。
「全く大変だったのよ。繕うってレベルじゃないわ。感謝してよね」
添さんが声を大きくして尊大に言った。勿論、言われなくても感謝している。
「……何か言いなさいよ。帰ってきてから一言も喋らないじゃない」
「添」
潟が添さんを制止する。添さんは不満気にしてはいるけど、僕を心配しているだけだ。
「……ぃ……ょぅ……」
大丈夫だと言いたかったのに掠れ声しか出ない。まるで叫びすぎて喉が潰れているみたいだ。
添さんは全く……と言いながら、鼻息を荒くして奥へ入っていった。
「雫さま」
潟が薄着でいる僕に着替えを差し出していた。受け取るだけ受け取って机の上に置いた。
「雫さま、そのままではお風邪を召します。怪我の手当ても拒否されたと聞きました。せめてお着替えだけでも」
大した怪我はない。戦闘中に桀さんの薬を飲んだから、ほとんど回復している。
首を振ったら潟がそっと手を握ってきた。固く握った僕の指をゆっくり開く。
「こんなに腫れて……」
机の上から手を下ろして、やや強めに潟から自分の手を取り返した。
確かに腫れている。皮膚が真っ赤になっていて手首から上と色が異なっている。火傷でもしたように皮膚がひきつっていて、一度握ったら固まってしまって開くのが難しい。
閉じようとした指の隙間で何かがキラッと光った。強引に指を開くと銀髪が一本だけ絡まっていた。
ベルさま……。
顔を見たくなって視線を上げた。
けれど、向かいの執務机には誰もいない。
僕が
もう戦いは終わったのだから、僕の側にいてくれるはずだ。
「お茶よ」
ドンッとやや乱暴な音がした。視界の端で添さんが僕の机にお茶を置いていた。
「……ぁ……」
ベルさまはどこに行ったんだ、と聞きたくて潟と視線を合わせた。だけど潟は目を逸らしてしまった。何故だか苦しそうな顔をしている。
代わりに添さんと目を合わせた。添さんは僕が外出している間、ずっとベルさまの側にいた。添さんならベルさまがどこにいるか知っているはずだ。
「……ぇぅ……」
「良いから早く飲みなさいよ。まさか私のお茶が飲めないって言うわけ?」
机の端にあった茶器をぐいっと前に押してきた。茶器から上がる湯気が寒さを誤魔化してくれる。でも今はお茶を飲みたい気分ではない。
押し戻そうとすると、添さんが茶器を手に取った。
「潟に口移しされたくなかったら早く飲みなさい!」
口元に茶器を突き付けられた。
飲まないと席を立つことさえ出来なさそうな勢いだ。諦めて受け取った。いつもの茶器でないと思ったら、かなり軽い。僕の手が握りづらいことを考慮してだろう。添さんの気遣いだ。
口をつけると熱すぎず、冷めすぎてもいない。八分ほどの熱さで香りが最大限に引き出されている。ほんのりと甘味が感じられ、後味はスッキリとしている。
とても美味しい。断ったけど飲んで良かった。
今度、ベルさまにお出ししよう。そうだ、それが良い。このお茶なら焼き菓子よりも果実の方が合いそうだ。酸味が強めの果実を選んでおこう。
そんなことを考えていたら添さんが茶器を奪い取っていった。それを持って再び奥へと下がってしまった。
「ありがとう」
その背に向けて感謝を述べた。すんなり声が出たことに自分が一番驚いた。
「良かった。お声が戻りましたね」
潟が少しほっとしたような顔をした。改めて唾を飲み込むと、喉の痛みがすっかり消えていた。
「木理皇上のお薬が効いたようで……」
「潟。ベルさまはどこだ?」
潟の言葉を遮って尋ねる。潟は一瞬固まって僕をじっと見下ろした。
「雫さま……」
「そっか、謁見か」
それならここにいなくても納得だ。その内、ふと帰ってくる。きっと文句を言いながら帰ってくるはずだ。
「雫さま。お気を確かにお持ちください」
まただ。潟が苦しそうな顔をしている。
僕は相当おかしな言動をしたらしい。
そうか。確か、ベルさまはしばらく謁見の予定を入れていなかった。状況が落ち着くまで延期すると。
すっかり忘れてしまった。いつの間にこんなに忘れっぽくなったのか。潟が心配するのも仕方ない。
謁見でないとすると……。
「今日は何日目?」
潟は僕の質問には答えなかった。そんなに悲しい顔でじっと見られたら、こっちまで気分が沈んでくる。
「なんのお話ですか?」
「理王会議は、今日で何日目?」
ベルさまがいないのは理王会議だからだ。
前は数日で終わったけど、今回は戦後処理があるから長くかかるのだろう。早くベルさまの顔を見たい。
「会議は……開かれておりません」
潟が顔を伏せた。僕からはどんな顔をしているのか見えない。
パシッと左頬に軽い痛みが走った。いつの間にか添さんが目の前にいた。小さい
「しっかりしなさい! 御上に何かあったら貴方が理王になるのよ!」
ベルさまに何かあったら?
そんなことはない。ベルさまは強い。霈の義姉上も言っていた。ベルさまは守らなくていいと。
「まだまだ先の話だよ。ベルさまは……」
「先じゃないかもしれないでしょ!」
「添、やめなさい!」
潟が添さんの両脇から手を入れて、抱えるように机から下ろした。
いつもの平和な光景だ。
「やめないわよ! 現実から目を逸らすんじゃないわ! 御上が危険な状態なのに淼サマがしっかりしなくてどうするのよ」
潟に抱えられながら添さんがキャンキャン吠えている。
「ベルさまが危険?」
そんなわけない。ベルさまは強い。
添さんを通り越して潟を見る。潟なら否定するはずだ。
「雫さま。御上……御上は意識が戻りません……」
僕の予想に反して潟は否定しなかった。
「雫さまが御上とお戻りになってから、ずっと……強力すぎる理力がお
潟の顔は苦しそうで、冗談を言っているようには見えなかった。
「そんなはず……は」
自分の手のひらを見た。絡まった銀髪に引っ張られるように、今までの出来事が流れ込んできた。
どうやって王館に戻ってきたのか、はっきりとは覚えていない。でも集まってきた太子たちの中で焱さんが倒れた。それは覚えている。
太子だけではなく、理王が全員集まっていたような気がする。その後、半狂乱だった僕はベルさまと引き離された。
勢いよく立ち上がったら椅子が倒れた。そんなものを戻している余裕はない。
「雫さま、お待ちください!」
制止する潟の腕を本気で振り払った。もしかしたら突き飛ばしたかもしれない。
ベルさまに会いに行かないといけない。
ベルさまに会いたい。
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