376話 恒山の魂送り

 せきカオスいつを連れて去り、続けてごんも姿を消した。菳は別に居なくなったわけではない。僕の鞘にくっついている。呼べば姿を見せるだろうけど、多分……寝ている。

 

 実質的に僕とベルさまの二人が泰山の上空に残った。

 

「雫。恒山へ向かおう」

「はい」

 

 返事をした直後には恒山上空に着いていた。雲の形を保ったままの水流移動だ。一体どうやったのか……。


 勿論、立入・・禁止だ。ベルさまに屈むよう指摘され、雲の上に膝を着いた。ベルさまも同じような姿勢をとった。

 

 ベルさまの顔がすぐ近くにある。ベルさまの真剣な顔に、つい見とれてしまいそうになるのを堪えた。

 

 今はそんな場合ではない。でもこれが終われば……この騒動が落ち着けば、ベルさまを毎日見られる。ベルさまの謁見があれば出来るだけ付き添いたい。僕が視察に行った時は王館でお帰りなさいと言って欲しい。

 

「少し待とう。いつが協力してくれると良いんだけどね」

 

 ちょっと先の未来を妄想……いや、想像しているとベルさまの声が僕を現実に引き戻した。カオスを捕らえたので気が弛んでいるのかもしれない。

 

 世界が危機に瀕しているというのに、ベルさまが側にいるだけでこのザマだ。ちゃんとしろ、と心の中で自分に喝をいれた。


「多分、大丈夫です」

 

 逸は弟と一緒にいたいはずだ。暮さんも逸のことを姉だと認識できていたから、多分協力できるだろう。

 

 『多分』という言葉に、これほど期待を寄せてしまうのは、危機的な状況だからだろうか。 

 

 大丈夫だと言った僕を見て、ベルさまは軽く頷いた。

 

「うまくいけば、理力から戻された人間の魂は水の星へ戻ろうとするはずだ」

「どうしてですか?」

 

 王館では人間についての記述がそこまでなかった。そこまで分かるということは、氷之大陸オーケアノスからの情報はかなり有意義なものだったようだ。


「精霊は一生を終えると魂が世界の理力に還元される。けど、人間の魂は循環するそうだ」

「循環?」

 

 理力に還元される過程を飛ばして、また生きるということだろうか。それでは魂が浄化リセットされる時間ひまがない。


「『生まれ変わる』ともいうらしい。一生を終えた魂が別の体に宿るんだって」

「一生を終えてすぐに……二生目になるんでしょうか」

「さぁ……そうなのかな?」

 

 流石にそこまでの情報はなかったようだ。

 

「新しい本体に中古の魂ってことですか?」

「………………そう、なんじゃないかな」

 

 ベルさまは少し悩んでから曖昧な返事をした。ベルさまでも分からないことなら、僕には絶対に理解できない。


「まぁ、それはそれとして。人間の魂は『生まれ変わる』ために水の星へ戻ろうとする。それを利用しようと思う」

 

 ベルさまは石碑の跡を踏みつけた。位置を確かめるようにジャリジャリと靴底で撫でている。

 

 先生が守っていた場所だ。ここで何ヵ月も独りで。

 

 ベルさまの登城要請にも応じず、僕の立太子の儀にも出席せず、むすこにも明かさず、ただ独りで精霊界の砦を守っていた。

 

 先生が開かないように守っていた場所を、今わざと開こうというのだ。少しだけ先生に申し訳ない気持ちになってくる。

 

 ベルさまはじっと足元を見ている。先生を偲んでいるのかもしれない。

 

「先生がご存命なら同じ事をなさるでしょうか?」

「さぁ」

 

 ベルさまの返事は素っ気なかったけど、僕と同じ気持ちなのだろう。


「少しだけ恒山を開く。そこから人間を水の星へ送り返す。雫には人間の魂をうまく誘導してもらいたい」

 

 ベルさまの中では既に次の行動が描かれていた。ベルさまと僕の役割がそれぞれ決定されていて、僕が拒否する理由はない。


「でも……とてつもないエネルギーが必要なのでは?」

 

 精霊界と水の星を渡るにはとてつもないエネルギーを要すると先生の日記に書いてあった。

 

 先生と雨伯の最上級の理術がぶつかったエネルギー……それに匹敵するものが必要だ。

 

「あくまで予想だけど、私たちが渡るわけではないから、それは必要ないと思う。恒山の口を開けるのに理力は必要だけど」

「どれくらいの理力が必要なのですか?」

 

 意外と多い答えが返ってくるに違いない。

 

「一般的な伯位アルなら、ふたり分もあれば足りるよ。そうだな、雨伯クラスならギリギリひとりで足りるんじゃないか。理力不足で三日くらい寝込むかもしれないけど」 


 ベルさまは寝込みませんか?と尋ねようとして止めた。野望な質問だ。

 

「雨伯で三日寝込むなら、僕には出来ないですね」

「いや、雫なら……少々の目眩くらいで済むんじゃないか?」

 

 無茶なことを言う。養父上で三日寝込むのに僕が目眩くらいで収まるわけがない。

 

「ただ……こちらから魂を送り込む以上、恐らく向こうから何かしらの反動があるだろう」

「反動というと?」

 

 ベルさまに聞き返した時、パリパリパリと雷伯の攻撃に似た音が空を伝ってきた。

 

 空のあちこちに点在していた灰色の雲が不自然な稲妻を通して淡く輝いている。ひとつひとつが真珠のような球体で真っ白で……なんの穢れもない魂の色だ。

 

「無事にやってくれたね」

 

 いつくれるさんがやってくれた。変換された理力が人間の魂に戻った。

 

 日が昇りきった空で異質さを放っていた灰色の雲が、遠くまで白に染まっていった。遠くからみればただの白い雲でも、近くにあるものはキラキラ輝いていて、それが普通の雲でないことは明らかだった。

 

「それは私が何とかする。雫は人間の魂を誘導して、一体たりとも精霊界に残してはならない」

「何とかって……」

 

 ベルさまの答えが曖昧なことに一抹の不安を覚えた。ベルさまのことだから問題ないはず。でも恒山を離れることが出来ない。

 

「ベルさま、反動って何が起こるんですか?」

「私にも分からない。でも何とかする。これ以上世界に無理・・をさせられない。淼、行きなさい。命令だ」

 

 冠名で呼ばれたあげく、命令という言葉にからだが反応する。短い時間だけベルさまに跪いて上空に飛んだ。

 

 大気中の水分が豊富にあるのを確認して、空全体の蒸気を引っ張った。網にかかった魚のように僕へ引き寄せられる。

 

 徐々に白い珠の雲がたくさん見えるようになってきた。この見える範囲の空はほとんど白い珠の雲で覆われている。それなのに太陽の光を遮らずに、寧ろ明るさを増しているのが……美しくも不気味だった。

 

『雫、開くよ!』


 ベルさまから通信が入った。

 

 返事をする間もなくからだが引っ張られそうになった。なんとかそこに雲を留めて落下を防ぐ。

 

 僕は踏みとどまったけれど、魂はぐんぐん恒山に吸い寄せられていった。栓を抜いた浴槽のようにみるみる吸い込まれていく。

 

 僕は流れに逆らって雲を飛ばして、はぐれる魂がいないかどうか確認する。時折、逆戻りしようとする猛者がいた。

 

 でも水の星へ戻れる誘惑に勝てなかったのか。それともただ単に流れに逆らう力がなかったのか。僕が何をするでもなく、皆恒山へ走っていく。

 

 思ったよりも順調だ。

 ……怖いくらいに。

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