333話 旗を立てる

 開戦まで三日。

 

 とは言え、既に日は沈んでいる。五日も僕が姿を消していたせいで、残り日数が少ない。時間の感覚がおかしくなりそうだ。

 

 各王館を回って様子を見たけど、対応は皆バラバラだった。参考になったのは建物の防御を確認しておくことくらいだ。

 

 でもそれが裏目に出てしまった。

 

「まさか先代の執務室に先々代の結界が張ってあるとはね」

「ベルさまもご存じなかったんですか?」

「近づこうとも思わなかったからね」

 

 てっきり知っていると思っていた。『理王の執務室』は破壊されて使えないと言っていたから。

 

「先代さまはどうしますか?」

「……うん。ゆっくり話してみたいけど、雫の話を聞いた限り、私が行くとややこしくなりそうだから、そっとしておこう」

「避難はしてもらいますか?」


 あのまま放っておいて良いものだろうか。万が一、免の襲撃にでもあったら……。

 

「そうだね……。その時は漕を呼ぶから、船にでも避難してもらおう」

「分かりました」

 

 また会いに行くと言ってしまったけど、あそこで五日も費やしてしまった以上、開戦前に伺うのは危険だ。うっかり踏み込めば時間が分からなくなってしまう。


「潟は先代さまの部屋のこと、何か聞いてた?」

 

 潟は実家から戻ってきて、僕の姿を見るなり膝から崩れ落ちた。ベルさまもそうだけど、潟にもかなり心配をかけてしまった。

 

「いえ、特には。聞いていたらお教えしております」

「そっか」

 

 潟の機嫌が悪い。

 

 ベルさまと同じかもしれない。心配していたけど、無事なことが分かると、あとから怒りが込み上げるタイプだ。


「潟。ごめんって」

「何がですか?」

 

 潟の返答は感情がこもっておらず、ほぼ棒読みだ。

 

「心配掛けて」

 

 潟は呆れたようにため息をついた。

 

 でも僕は知っている。それはため息ではなく、これから小言を捲し立てるために、息を大きく吸う準備だ。

 

「……そのことはもう宜しいのです。雫さまがご無事なのでしたら」

 

 宜しいという顔をしていない。今のは小言の助走をたっぷり取っているようにしか聞こえない。

 

「えぇえぇ、そうですとも。例え、侍従である私に一切の相談もなく、いえ、相談とまではいかなくとも、出掛ける旨の一言、あるいは百歩譲って書き置きすらなかったとしても、それはもう宜しいのです」


 ここまで息継ぎをしていない。素晴らしい肺活量だ。


 ちなみに、やっぱり怒ってるじゃないか、という言葉は胸にしまった。火に油を注ぎそうだ。

 

「じゃあ、どうしてそんなに機嫌が悪いの?」

「どうしてか分かりませんか?」

 

 黙っていなくなったことに腹を立てていないなら、他に心当たりがない。

 

 ベルさまと顔を見合わせてみる。ベルさまは軽く苦笑しただけだった。

 

「私の前で御上とイチャイチャなさるのはお止めください。こちらの身が持ちません!」


 潟が両手で顔を覆い、天井を向いた。一体、何が気に入らないんだ。

 

「潟、落ち着いて。別にイチャイチャなんてしていないよ」

「御上の膝の上に乗った状態で、よくそんなことを仰いますね」

 

 確かに僕は今、椅子に座ったベルさまの上に座っている。

 

「何故、御上の膝の上にいらっしゃるのですか?」

「なんでって……」

 

 そういわれて、潟が帰ってくる前からこの体勢だったことを思い出した。あまり気にもしていなかったけど。

 

「もし、最悪の場合、避難することを考えて、王館が崩れる中、僕がベルさまを抱えて逃げられるかっていう話をしてたんだよ」

「それで私が逆の方が良いんじゃないかと……」

「で、ベルさまが僕を持ち上げようとして、その……うまくいかなくて」

  

 ベルさまが避難するとなると、王館が崩れてしまう。それを想定してどうやったら逃げられるか、ということだ。

 

 昔、ベルさまが僕を抱えて火の王館に行ったことがあったけど、今の僕ならベルさまを抱えられると思う。

 

「雫が大きくなりすぎて、物理的には抱えられなかった。膝が崩れて椅子に座る羽目に……理術を使えば持ち上げられるが……」

 

 ベルさまはちょっとショックを受けている。僕が成長して、ベルさまの背を抜いて久しい。ベルさまが僕を持ち上げようとしても、僕の足は床から離れなかった。

 

「でも、ベルさま。いつまでも上に座っているのは良くないですよ。僕、下ります」


 潟はそれで怒っているに違いない。太子とはいえ、理王の膝に座るのは無礼だ。普通、そんなことをする太子はいない。いや、待てよ。鑫さんなら、金理王さまの膝に乗りそうな気がする。

 

「潟、下りたよ。これで良いでしょ?」

「いえ、そういうことではなく……」

 

 潟は何故か納得していない。一方ベルさまは何故か勝ち誇った顔をしている。

 

「じゃあ、ベルさま。今度は僕がやってみます。こっちに来てください」

「雫さま、もうお止めください。添から聞いてはいましたがここまでとは……私の理性を試す気ですか?」

 

 潟は鼻の少し上の方を押さえ出した。鼻でも詰まっているのか?

 

「何か問題があるのか? 私たちは愛し合っているんだから、問題ないだろう?」

「愛……あぁ、雫さまがあんなことやこんなことを…………グふォッ」


 潟は変な呻き声を出しながら、少し前屈みになった。鼻を摘まんだ手の間から、赤い筋が二本見えている。

 

「潟! は、鼻血が!」

「……不埒なことを考えていたな」

 

 冷静なベルさまに対し、僕はあたふたしてしまう。潟は懐紙を取り出して何回か折ると、それで鼻を押さえた。鼻血を止めるにはやや固い紙だ。

 

「しづるぇいしばしだ」

「とりあえず座って」

 

 何を言っているのか分からないけど、止血が先だ。潟をソファに座らせて落ち着かせた。ポタポタと血が止まらない。低いテーブルの上に数滴落ちているけど、その処理は後だ。


「急に鼻血を出すなんて……どこかで喧嘩でもしてたの?」

「…………」

 

 潟にジトッと睨まれた。少なくとも喧嘩はしていないようだ。


「雫じゃなくて、そえるに介抱して欲しいんじゃないか?」

「あぁ、そう。悪かったね、僕で」

 

 ベルさまの言うことは分かる。僕だってもし同じ状態になったら、潟ではなくてベルさまに介抱して欲しい。

 

「良い機会だから言っておくが、魂繋している身で……いや独身だったとしても、雫に手を出したら分かっているな?」


 ベルさまの声が低い。完全な警告だ。

 

「わがっでおりばず」

 

 辛うじて了承の返事だということは分かった。潟は鼻から紙を離して、口元を少し擦った。

 

そえるさんを呼ぼうか?」

「今、声を掛けない方が良いかと思います」

 

 半分冗談で言うと、潟は真面目な顔で首を横に振った。あまり振動を与えるとまた鼻血が出そうで気が気ではない。

 

「添は何をしてるんだ? 塩湖に帰ったのかと思っていたが」

「いえ、今は旗を縫っております」

 

 ベルさまの問いに不思議な答えが返ってきた。旗を縫って欲しいなんて頼んだ覚えはない。

 

「旗って何?」

「理王の結婚式で掲げる旗です。御上と雫さまが魂繋するだろうと、添が張り切って作っております」

 

 初耳だ。

 

 それに僕は添さんの前で、ベルさまを愛しているとは言ったけど、魂繋するとは言っていない。

 

「待っ……」

「理王在任中に魂繋をする例は少ないですが、一定の期間、王館の最頂部に旗を立て、理王の婚礼を示すのです」

「へぇ、そうなんだ」

 

 へぇ、ではない。初めて知る情報につい食いついてしまった。でも僕とベルさまは結婚式どころか、魂繋の話すら出ていない。


「そういえば、そんな話があったな。雫、結婚式はいつにする?」

「ふぁはへぇ!?」

 

 ベルさまは当然のように、日取りを尋ねてきた。僕と魂繋することが前提だったらしい。嬉しいことこの上ない。

 

「差し出がましいようですが、やはり免との戦いが終わってからになさってはいかがですか? 理王の婚姻ともなると、各王館に通達もせねばなりません。雫さまのお母上や、雨伯にもお伝えせねば」

 

 潟の言うことは尤もだ。いや、待て待て。何だか、流されているような気がする。

 

「確かに、今は時期ではないな。雫もそれで良い?」

「は、はい!」

 

 自分のことなのに完全に流されている。でも良いことにした。自分がそれを望んでいるから、流されているだけだ。

 

「ベルさまがそれで良ければ」

「じゃあ……免との戦いが終わったら、魂繋けっこんしよう」

 

 ベルさまの笑顔がとても眩しい。僕はきっと嬉しさと恥ずかしさで変な顔をしている。

 

逆上のぼせそうですね」 

 

 潟が手袋をした手で顔を扇いでいる。その後ろの窓からは王館の屋根が少しだけ見える。夜が明けてきたらしい。

 

 王館が朝日に染まっていく。太陽に煌めく旗を遠くから見てみたいと思った。

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