314話 元人間

「人間は通常、精霊界には入って来られないのだ」

 

 灯りが入った部屋で、養父上の影が日記に落ちている。日が沈んでからは暗くなるのが早い。もう灯りなしでは字が読めない。

 

「人間の体と精霊のからだは異なる物質で構成されているのだ。この世界では人間の体は耐えられないのである。始祖さま達がそのように世界を作ったと聞いているのだ」

 

 それは知っている。目の前で人間の体が崩れるのを経験済みだ。

 

「だから人間が入って来る時は体が壊れ、魂だけになっているのですか?」

 

 潟が少し前のめりに尋ねた。養父上は潟の顔を見ようとしたけど、僕の顔が邪魔で見えないらしい。僕の髪を命綱代わりに、反対の肩へ移動した。

 

「恐らく……しかし、精霊界の存在を知る人間はもうほとんどいない、と九良くらどのとらいどのが話していたのだ」

「九良?」

 

 らいさんは石造りの神殿の精霊だと読んだ気がするけど、九良さんは出てきていない。

 

「紅海月の九良どの……は名までは書いていないのか?」


 それは書かれてない。全て紅海月としか載っていなかった。然程気にしてはいなかったけど、言われてみれば名の記載はなかった。

 

「紅海月の一族は、真名に若返った回数を付けて呼ぶのが一般的だと言っていたのだ」

 

 真名がで、九回若返っているということか。

 

 もしかしたら今頃、九回ではなくなっている可能性もある。それもあって先生は名を書かなかったのかもしれない。今となっては確認しようがないけど。

 

 向かいからわざとらしい咳払いが聞こえた。今その話が必要かという視線を、ベルさまから投げ掛けられた。

 

 僕も養父上も気まずさから目を逸らす。養父上に至っては僕の首の後ろに隠れてしまった。

 

「全く……似た者養父子おやこだね」

 

 足元から鳥肌が立った。けれど不思議と不愉快ではない。敵ではないこの感じ。

 

 実父である初代理王が嫉妬している。

 

 実父の嫉妬心を読み取れてしまった。ベルさまの『似た者養父子』という言葉に反応したようだ。

 

 お願いだから地下そこでじっとしていてほしい。また王館が揺れ始めたら今度こそ大変だ。崩れたところを免に攻められたら、目も当てられない。

 

 今まで養父上と一緒にいたときは、こんな気持ちは感じ取れなかったのに。何故、今更と思う。

 

 しかし、僕の心配は必要なかったようで、初代理王が姿を現す気配はなかった。それどころか、僕以外は父上の嫉妬に気づいていなさそうだった。


「そ、それで、その九良さんは他に何か言ってましたか?」

 

 脱線させてしまった話を強引に戻す。養父上も僕の肩に戻ってきた。やや距離があいて、顔が見やすくなった。

 

「うむ。漣の記述にもある通り、精霊界に渡った雲泥子を追いかけ、一人の人間が渡ろうとしたらしい」

 

 精霊界に行けない精霊たち。

 その精霊の魂を持っている雲泥子ウンディーネ

 その雲泥子を追いかける人間。

 

 その人間がまぬがなのか。

 

「しかし先程も言った通り、生身では精霊界には来られない。そこでその人間は……精霊を喰ったらしいのだ」

「精霊を喰った? 寄生性原虫アメーバみたいだな」

 

 ベルさまがそう言ったので、美蛇のことを思い出してしまった。自分に歯向かう兄弟姉妹に寄生性原虫を仕掛けて、その魂を喰わせていた。


 原虫自体は悪者ではない。水質を保つのに必要な存在だ。でも美蛇のせいで好印象を持てないでいる。

 

「いや、少し異なるのだ。魂も魄も全て喰うらしい。そうすると、体が精霊の魂に耐えられる構造に変わるそうだ」

 

 不気味というか気色悪いというか……いずれにしても不愉快な話だ。

 

 水精とか火精とか、そういう所属を抜きにして精霊という同族が喰われたということに、憤りを感じる。

 

 しかもそれが生きるために必要な食事としてではなく、自分の願望を満たすためだとしたら尚更だ。  

 

「しかし、人間の体がそれで精霊界に耐え得るものになったとして……水の星から渡ってくるだけの力があるのでしょうか?」

「人間自体にそれほどの力はないのだ」

 

 先生と養父上の力を合わせても、まだ足りず、隼さんと満月の日の満潮を待って、ようやく渡れたのだ。力の弱い人間がそう簡単に渡れるはずはない。


「しかし、人間というのは何をするか分からない」

 

 養父上が少し黙ってしまった。灯りに照らされて顔が半分暗く見える。


「これは我輩が立てた予想である。我輩たちが水の星に渡ってしまった時、水の星からも精霊界に誰かが渡ったのではないかと思うのだ」


 口を軽く開けたまま閉じるのを忘れていた。ベルさまも潟も目を少し見開いている。

 

「なるほど……二人が渡った反動を利用して、入れ替えという形ならそこまてのエネルギーは必要ない、ということか」

 

 ベルさまの理解が速くて付いていけない。

 

「そうである。片方から片方へ移動するのは大変な力を必要とするが、それが入れ替えという形なら、少しの力で済むのだ。我輩が漣をからかいに行ったとき、衡山近くで理術をぶつけ合ったのだ。それを利用しのだと我輩は思うのだ」

 

 養父上……先生にちょっかいを出しに行っていたのか。やっぱり仲良しなんじゃないか。

 

「何故、そう思うのですか?」

 

 実父がからかわれたという事実は綺麗に無視して、潟が尋ねる。

 

らいどのは長いこと人間に祀られていたので、魂の動きに敏感らしいのだ。我輩たちが水の星へ渡ったのとほぼ同時期に、生でも死でもない魂のおかしな動きを感じたらしいのだ」

「じゃあ、本当にそのとき、もしかしたらまぬがが……」

 

 三人の視線を一気に浴びて、少し居心地が悪い。

 

「まだそう決めるのは早い……いや、可能性は高くなったけどね」

 

 ベルさまが僕から目を逸らして先生の日記を閉じた。

 

 得られる情報はもうないと判断したのだろう。先生の日記と養父上の補足でかなり情報を得られた。

 

「もし、雲泥子の元契約者が本当にこの世界に渡っているとしたら、相当前からこの世界に人間が紛れ込んでいたことになりますね。人間と言って良いのか……元人間と言いますか……」

 

 元人間とは言い得て妙だ。精霊を喰ったことで人間の体ではなくなっているのだから、人間とは呼べない。かと言って勿論精霊でもない。

 

「そうなのだ。漣はそれを見越して、そこから猛勉強した。理術も体術も学術も……元々、我輩の方が勉強は出来たのに一気に抜かれたのである」

 

 養父上が僕の肩の上でわざとらしく地団駄を踏んだ。踵がツボに入ってちょっと気持ち良かった。

 

「いつか元人間が精霊界での問題になったとき、速やかに対処するため、漣は理王を目指し、我輩は世界を監視するため竜宮城を作ったのだ」


 先生は何でも知ってるし、何でも出来る。そう思っていた。聞けば何でも答えてくれるし、何でも教えてくれる。それを何度羨ましいと思ったか分からない。

 

 でも、それは先生の自らの努力によるものだった。羨ましいという思うことは間違いだったのかもしれない。

 

 ふと視線を上げると、東の空が白くなり始めていた。

 

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