閑話 塩湖 潟~雫との出会い③
王館で私を出迎えたのは父ではなく、太子付きの侍従長だった。理王の出迎えなどないのは当然だが、挨拶も不要だと言う。
任命書が届いてから数年経っている。反故にされなかっただけマシかもしれない。
王館をひと通り案内されて、最後に通されたのが太子の執務室だった。侍従長はノックをすると、返事を待たずに扉を開けてしまった。
部屋の奥に陣取った執務机。そこにいる太子の第一印象は『弱い』だった。
声も弱々しいが、理力も弱い。筆記具を握る指は細く、武器など握ったことがないように見える。強く握れば腕など折れてしまいそうだ。
「……分からないことがあったら……に……」
早口で済ませた挨拶に、返ってきた声が小さくて聞き取りにくい。特に後半はうつ向いてしまったので、聞き取れなかった。
しかし、弱くても太子は一人で戦うものだと聞いている。だから、意図的に理力を抑えているのだろう。
太子が一人で戦うということは……今更ながら自分の立場が閑職であることに気づいてしまった。
それから数日して、太子の視察に追行するようにと侍従長から指示があった。
聞けば太子の身を狙う輩がいるという。視察に同行は許されないので、付かず離れずの距離で太子をお守りしろとのことだった。
太子なら自分で処理するべきだと言いそうになった。自分でもよく耐えたと思う。
他の王館でも同じなのかと思い、親しくなった者に尋ねてみた。それで……太子には侍従武官は滅多に付かないと知ってしまった。
理王付きの侍従武官は多いが、太子付きは即位間近に置かれるくらいだという。
父はまだまだ現役だ。しばらく引退はしないだろう。……となると自分は何のために呼ばれたのか。
答えは簡単……弱い太子を守ること、だ。
太子は理力を抑えているわけでも、強さを隠しているわけでもない。本当に弱いのだ。
気が乗らないまま、指示通り少し離れた場所から視察の様子を窺う。姿が見える位置なのに理力を感じない。
こんな奴のために今まで努力してきた訳ではない。帰る間際に太子を狙った輩が三人ほど出てきたが、つい八つ当たりしてしまった。
それからも何度か視察に追行あるいは先行した。閑職どころではない。その度にやるせない気持ちにさせられた。
百歩譲って、太子の理力や体力が弱いのは仕方がないとしても、意思まで弱いのはいただけない。
ほとんど側近や侍従長に言われるまま動いている。視察の優先順、各精霊への通達など、事細かに指示されている。
太子には自分の意思がないのかと思ってしまう。これでは遅かれ早かれ、即位に不安を抱かれるだろう。
その矢先、視察中に
魄失が狙っているのは、この領域の精霊だ。太子は
気づいたときには太子を無視して、魄失を一方的に切り捨てていた。幸い精霊たちに怪我はなく、領域も荒らされはしなかった。
震える太子を支え、帰館したのは良いが、侍従長に何があったのかと質問攻めにされた。
もうクビでも良いと思い無視した。こんな
父の下で働きたい。
そうでなければ父以上に強い者。理力や体力ではなく、
クビを見越して帰宅の支度をしていたところ、声をかけられた。
十五、六人はいるだろうか。見たことがある顔が三人ほどいる。
「潟さまですよね?」
「何か?」
敬称を付けて呼ばれる覚えはない。ここでは私が一番新人だ。
「聞きましたよ!魄失を見事に打ち倒したそうですな!」
「はぁ」
こういうことだけは伝わるのが速い。
「怯える淼さまを庇いつつ、一刀両断なさったとか」
「いえ、二回切りました」
上半身と下半身を分けるのに一回。首と胴を分けるのに一回だ。それで消滅した。
それが真実だが、謙遜と取られたらしく、私を置いて話は盛り上がっていった。
「
「王館はその話で持ちきりです!」
「流石は御上のご子息ですな」
「左様左様。それに比べて淼さまは……」
帰宅する機会を逃した。
その後も面談に訪れる精霊が絶えなかった。たかが侍従武官の部屋に、不自然なくらい精霊が集まってきた。
それから毎日誰かが訪れるようになった。何人かには夜の相手もしてもらった。特に淡水の相手は新鮮だった。私の塩水で淡水を濁らせる度、背徳感にゾクゾクとしたものだ。
しかし、海で過ごした
しかし、それが遂に
玉座に掛けた父はとても遠かった。意図せず跪いてしまい、本当に理王なのだと痛感した。
「竜宮城への出向を命じる」
その日の内に、荷物をまとめて竜宮城へと向かった。幸い、王館に出仕していた雨伯の娘、
雨伯は最古参の精霊だ。どんな堅物かと思っていたら、相当人懐こい御当主で、家族の一員のような扱いを受けた。
父が理王になる前……母が生きている頃でさえ、こんなに暖かく過ごした記憶はない。両親の愛情を信じていたが、もしかしたら、それは勘違いだったかもしれない。そう思わせるのに十分な暖かさがあった。
雨伯の一族へ感謝の気持ちが深まる一方、父に対して、裏切られたような気持ちにかられていった。
しばらくして雨伯が王館に呼び出しを受けた。城に戻ってきたときには私の帰館命令を携えていた。
「そなたを巻き込もうとした連中も皆、捕まったのである!」
雨伯は笑顔でそう言ったが、何のことだか分からなかった。
「知らなかったか? 太子を廃してそなたを太子に据えようという不穏な動きがあったのだ。れ……御上はそなたが巻き込まれないよう我輩に預けたのである」
何も聞いていない。私は何も……。
動揺を隠せないでいると雨伯は続けた。
「そなたが子供の頃、御上が我輩のところに怒鳴りこんできたことがあったな。塩湖に雨を降らせるな、と理不尽な要求をしてきたのだ。ものすごい剣幕であったぞ! わはは!」
子供の頃、よく目を患った。雨が降って塩分濃度が下がることが原因だった。
まさか……。
「父に愛されておるな」
雨伯に肩を叩かれるまで、思考が止まっていた。
王館に帰ると今度は侍従武官の任を解かれた。しかし、私のことを考えての解任だと、今なら少し理解できた。
それから代が替わり、すぐに流没闘争が始まった。あの弱い太子が王になったのだ。混乱を引き起こすのは予期できた。
流没闘争の影響で、領域を追い出された
あっという間にまた代が替わり、第三十三代水理王が即位したことで、流没闘争は収束の兆しが見えた。
世の中が少し落ち着いたので、
最近、王館の職に復帰したと風の噂で聞いたが、久しぶりに会った父は急激に老いたようだった。流没闘争で力を削ぎ、全盛期の十分の一ほどしか理力がないらしい。
「息災であったか」
「はぁ」
十分の一でまだこの威厳かと思ったのが正直なところだ。
その父に王館で働く気はあるかと尋ねられた。登城した際、気づいてはいたが、働き手がいない。侍従や側近、清掃人に至るまで精霊の気配がない。
その中でどんな仕事をするというのか。
「新しく御上の侍従になった者がおる。その護衛じゃ」
またお
「断っても良い。これは命令ではなく依頼じゃ」
会ってから決めて良いと言われ、まずは御上に通された。正式な命令ではないので、謁見の間ではなく、応接間だった。
御上の理力は魂が凍りそうなほどに強かった。前の理王とは比べ物にならない。父よりももしかしたら……。
けれど不思議と御上の下で働きたいとは思わなかった。私が望んだ強さを持っているのは違いないが、強さよりも恐怖を感じた。
「雫です、参りました」
控えめなノックの音がして、御上がすぐに入室の許可など許可を出した。
扉はすぐに開いたが、不自然な場所で一度止まる。覚えのない私の気配を感じ取ったようだ。なかなか鋭い。
父が声を掛けてようやく入室すると、今度は私の顔を見て固まった。
「先……生?」
「雫、わしはこっちじゃ」
父と私を見間違えたらしい。私はそんなに老けているのか。
しかし、今の一言で分かってしまった。
この侍従は理王になる。
父を先生と呼んだからには、そういうことだ。元理王が教育できるのは太子になる者だけだ。
この執務室に入ってから、御上と父の理力にまるで怯えた様子がない。
そして、疑いたくなるほどの純水。ただの淡水ではなく純水だ。濁らせたいという思いよりも、絶対に汚させたくないと思いが勝った。
何より意思の強そうな目をしている。行きすぎれば頑固になりそうだ。でもそれくらいで良いかもしれない。意思が弱いより頑固な方が余程の良い。
「待たせた、これが任命書だ」
御上は私の顔を見て、護衛を引き受けると悟ったようだ。私の返事を待たず、正式な任命を与えた。
しかし迷いはなかった。この意思の強い純水の下でならやっていける。この純水を私が理王に導く。
「
手を取って魂を預けたら、雫さまは悲鳴を上げそうな顔をしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます