282話 人間の魄失
「漕、そこにいるか? 各王館へ回れ。現在、人間の魄失と思われる六体を
控えめだけど荒っぽい水音がして、漕さんが慌ただしく出ていった。
「ベルさま。これ……と残りの五体はどうしますか?」
恐らく人間だったモノは消えそうにない。悪臭が漂っている。片付けられるものなら綺麗にしてしまいたい。
「各理王の意見を聞くまではそのままにするしかない。特に火理の意見を」
衡山から出て来たものだから、火理王さまの意見は重要だ。仕方ないけどこのままだ。
「でもこの臭いはきつい。ただ腐っただけではこんな臭いにはならない。一体、どういう生き物なんだ、人間は……」
ベルさまはそう言いながら、僕を連れて牢の外へ出た。その過程で牢を氷付けにしてしまう。純度の高い氷に悪臭が阻まれて、尚且つ中がはっきりと見える。
外の空気が清々しい。空気が美味しいというのはこのことだ。肺を爽やかな空気で満たしてから、ベルさまと共に執務室へ戻った。
「おかえりなさいませ。雫さま、菳を木の王館へ送り届けて参りました」
「……ご苦労様」
執務室では潟さんが待っていてくれた。いつも通りのにこにことした穏やかな笑顔にほっとする。
ベルさまも僕もそれぞれ執務席に掛ける。それから会話がない。何を話していいのか分からない。
席について書類を捲ってみても内容が頭に入ってこない。目を覆うように額を抑えた。
人間の存在を確認した。いや、してしまった。
人間が攻めてくる……かもしれない。
でも何のために……。
精霊を追ってきたのか、それとも、別の目的があるのか。
捕まえた人間は、全部俺の物だと叫んでいた。その直前、魄失だったときは我々のものだとも言っていた。
何かを奪いに来たのか。
……だとしたらそれは何だ。
考えがまとまらない。
黄龍でさえ分からないことを僕が分かるわけがない。
「雫さま」
「……何?」
潟さんから声をかけられて、顔を上げる。心配そうな顔で僕を見ている。それからベルさまと僕を交互に見て、しばらくすると僕の側へ来た。
「御上と喧嘩でもなさったのですか?」
「は?」
ベルさまに聞こえないように耳元で囁いたのだろうけど、僕が大きな声を出してしまった。
「何で僕が御上と喧嘩するの?」
理王と喧嘩する太子。……謀反としか思えない。
「聞こえてるよ、潟。何故、私が雫と喧嘩しなければならない」
「いえ、違うのなら良いのですが。お二人ともご様子が常と違いますので……。特に雫さまは顔色も良くありません」
潟さんが僕の顔を覗き込む。目を逸らして自分の頬を撫でた。潟さんを心配させるほどひどい顔をしているらしい。
「ちょっと気分が悪いものを見て来たんだ。潟さんが見なくて良かったよ」
「そうですか……」
潟さんは少しの間、僕から離れると茶器を二つ持って戻ってきた。茶器から湯気が上がっている。
「温かいものをお持ちしました。それから菳を送った際、果物を持たされましたが、ご用意いたしますか?」
ベルさまの席に茶器を置くと、僕に茶器を渡す。受け取った茶器の温かさにほっとする。
でも果物に限らず、何かを口にしたい気分ではない。
「いや、今は良い。ありがとう」
「では剥かずにお持ちします。香りを嗅ぐと心が落ち着きます」
潟さんが果物をいくつか大皿に盛ってきた。確かに芳しい。甘い香りと爽やかな香りが調和して、息をする度に心が落ち着く気がする。
「潟は意外に気が利くな」
ベルさまが『意外』という言葉を強調しながら、深呼吸をした。
「私が荒ぶったとき、
なるほど。添さんが元ならこの心配りは納得だ。決して潟さんが出来ないというわけではないけど、誰しも向き不向きがある。
それなのに、これまでの経験を最大限に活かせる潟さんは、やはり優秀なのだろう。
「雫。もし良ければ、書記官に仕事を与えてもらえないか?」
ベルさまが遠慮がちな提案をしてきた。理王の命令を聞かないわけはない。けど、 添さんは僕の書記官だ。それを踏まえて僕からの命令にしろという意味だろう。
「何でしょう」
「
普段の生活では必要のない情報ばかりだった。もし、父が初代理王でなかったら作り話だと思ったかもしれない。
「……潟さん。僕からの依頼ってことで添さんにそう伝えてもらえる?」
「それは構いませんが……かなりのお時間をいただくことになると思います。宜しいですか?」
当然だ。ベルさまは天地開闢の関連情報全てに目を通せ、と言った。どれくらいの量なのか想像できない。
「急は要しないが、時間があるわけではない。五山の異常に関係するものと心得てほしい……と太子も思っている」
「思ってます」
ベルさまの言葉に僕の言葉を上乗せする。ベルさまが直接命令すれば良いのに、いちいち面倒だ。
ベルさまも書記官か側近を置けば良いのに、と一瞬思った。でもすぐに自分の考えを否定する。
この執務室で、ベルさまの隣に誰か立っているのを見ることになる。それは嫌だ。僕がそこに立ちたい。太子なんて辞めても良いから、僕がベルさまの隣にいたい。
そう考えると、ベルさまが誰も側に置かないのは僕にとっては嬉しいことだ。顔がにやけそうになる。潟さんが声をかけてきたので、ぐっと表情筋を引き締めた。
「私も手を貸して宜しいでしょうか。勿論、雫さまのお世話を優先いたします」
「そうしてあげて。僕、自分のことは出来るから大丈夫だよ」
「そう言われると寂しい気もします……」
潟さんが出ていくと、また静寂が広がった。さっきと違うのは果物の香りだけだ。
「ベルさま。本当に人間が攻めてくるのでしょうか」
「さぁ。
それは誰にも分からない。
……いや、
でも黄龍は影響のない近未来までしか見せられないと言っていた。それに第一、
結局、自分達で何とか対処するしか……いや、待て。
「ベルさま。僕、もう一度父上のところへ行ってきます」
勢いよく立ったので椅子を倒しそうになった。行ってきますと言ったものの、ベルさまに開けてもらう必要がある。
「開けるのは構わないけど、どうした?お父上からは『先のことは自分で何とかしろ』と言われたんじゃないの?」
父上との会話はベルさまにも伝えてある。覚えてくれたようだ。
「はい。もう一度会って聞きたいことがあるんです」
黄龍閣下に父を頼れと言われたのは事実だ。もう一度、会って話を聞かないといけない。
『ボクに話?』
「そうです。父上に……え?」
返事をした途端、執務室の床を水柱が突き抜けた。
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