281話 魄失の体

「一気に凍らせると魂も壊れるから少しずつだ。少し待て」

 

 そう言いながらベルさまは急に腕を広げた。その手には白くて厚みのある皮が乗っていた。


「ベルさま、それは……海豹人セルキーの皮ですか?」


 海豹人セルキーから皮を剥がしてしまえば海豹人は魄失に近い存在になってしまう。また着せれば戻るみたいだけど、普通の精霊に着せれば、精霊も魄失になってしまう。


「あぁ、完全に固まったら被せてみる。やったことはないけど理論上は精霊に戻るはずだ」

 

 精霊の場合と逆だ。魄失に着せれば、精霊に戻る。そうすれば元が何の精霊だったのかが分かるだろう。


「実はこの皮は雫宛に贈られてきたものだけど、ちょっと借りるよ」

沾北海せんぽくかいからですか?」

 

 沾北海の海豹人セルキーは先生についての情報を送ってくれたばかりだ。いろいろ尽くしてもらってありがたいやら申し訳ないやら……。


 ベルさまの答えを待たず、ベルさまと僕の間に漕さんが割り込んできた。

 

「坊っちゃん、それは西の海豹人セルキーからや」

 

 西の海豹人セルキー……あまり接点はない。潟さんの塩湖へ行く途中で、様子を見た程度だ。狩りの最中だったので、上空からの挨拶で済ませてしまった。

 

「うちがお使いに行ったんよ。『祝い、数、増えた』って言ってたで」

「群れが大きくなったお祝いってこと?」

 

 それを何故、僕に贈ってくるのか。沾北海は僕に忠誠を誓ってくれるとは言っているけど、西の海豹人セルキーに名付けはしていない。

 

「要約すると、『先日、水太子から受けた祝福により、頭数を百ほど伸ばし群れに活気が出ました。理力へ還った者がいるので皮を献上いたします』ってとこだね」

 

 ベルさまが捕捉してくれた。そう言いながら魄失を指でつついている。

 

 生まれたて海豹人もいれば、亡くなったの海豹人もいるのか。自然の摂理だから仕方ないけど、仲間の大事な皮を贈ってもらえるほどのことはしていない。

 

「もぅ坊っちゃんたら、海豹人にまでモテちゃうんやから。お兄さん、妬けちゃうやないの」

 

 漕さんが僕の肩に腕を回してきた。重くて息が詰まりそうだ。

 

「雫が『細雪ささめゆき』を贈ったことで、群れ全体の生命力が一時的に上がったんだろう」

 

 ベルさまがちょっと不機嫌そうに答えてくれた。僕の浅はかさをたしなめているのだろう。

 

「……気を付けます」 

 

 挨拶代わりの理術だと思っていたのに、そこまで効果があるとは予想外だった。初めて使う理術だから熟考すべきだった。使いどころのない理術だと思っていた自分が恥ずかしい。

 

「さて、もう良いね。雫、氷柱牢獄を解除して」


 僕の理術などベルさまなら簡単に解ける。それをわざわざ僕にさせてくれるのは、ベルさまの気遣いだ。

 

 魄失がピクリとも動かないことを確認して、氷柱牢獄を解除した。

 

 ベルさまから海豹人セルキーの皮を受け取って、魄失に被せる。そのまま待っていたらベルさまに袖を引かれた。

 

「溶かすから少し下がって。漕、牢の外へ出ておけ」

 

 ベルさまと僕が牢の中に残り、漕さんが牢の外へ出た。漕さんの安全を考えてのことだろう。何だかんだ言ってもベルさまは漕さんのことを気にかけている。

 

「『解凍もどれ』」

 

 解凍された瞬間、海豹人セルキーの皮が盛り上がりを見せた。形的に皮の下には人型がいるようだ。

 

 でも……何の精霊だ?

 性質が分からない。


「何か……不思議な……混合精でしょうか?」

 

 一番強いのは水の性質だ。でも金や火の性質も感じるし、弱いけど土と木もある。

 

 僕がおかしくなったのか?

 

 隣を見るとベルさまも険しい顔をしている。

 

 皮がむくりと動いた。床に膝を着いたまま、自分の手をじっと見ている。手のひらを見たり、甲も見たり、ヒラヒラとひっくり返して忙しない。


「は……はっ……ハハハハハハ!」

 

 魄失が……いや、元魄失が高い笑い声を上げた。皮を被ったままなので顔は見えないけど、声が牢に反響している。

 

 ベルさまの前に立ち、玉鋼をいつでも抜けるように身構える。じわじわと悪臭も漂ってきた。腐敗臭のような……生臭い匂いだ。鼻を覆いたくなるのをグッと堪える。

 

「た、助かった! これで全部、俺の物だ! 俺が一番乗りだ! 一生遊んで暮らせ……」

 

 不快な言葉を吐き出しかけて、元魄失が倒れ込んだ。皮を踏んづけたのか、唐突な倒れ方をした。顔面から床に突っ伏したので、かなり痛いだろう。

 

 それなのに呻き声すら聞こえない。あの高笑いはどこへ行ったのか。流石に心配になってきた。屈んで皮を手にかける。

 

「雫、下がれ」

「はい?」

 

 ベルさまが不快な表情で僕を強く引っ張った。皮を掴んだまま、ベルさまに引かれるまま立ち上がる。自然に皮が剥がされた。

 

「なっ……」


 皮の下では人型が腐敗を始めていた。悪臭はここからか。指先はすでになくなっていて、腕まで黒くなっていた。

 

「ベルさま!」


 ベルさまは動かない。じっとその様子を見つめている。助けた方が良いのか、それともこのまま見送った方が良いのか。

 

「っ『氷結』!」

 

 考える時間が欲しくて一旦凍らせた。凍らせれば腐敗も止まる。

 

 そう思ったのに、氷結させても尚、腐敗は止まらない。遂に腕が落ちた。

 

「『水球』」

 

 涙湧泉の水を呼び出した。これなら多少の効果があるかもしれない。そう思って近づこうとしたところをベルさまに止められた。


「滅びるべき者を助けてはいけない」

「ベルさま……」


 もう助からない、とベルさまに諭された。

 

 ルールの根底にあるルールだ。 僕たちがそれを犯してはならない。

 

 持て余した水球を握ったまま、何の効果もなかった氷結を解除した。


「……死にたくな……」

 

 か細い声が聞こえる。

 

 しばらくすると声も聞こえなくなり、ピクリとも動かなくなった。僅かに感じた火の性質が消え、徐々に他の性質も分からなくなった。

 

 魄失になるほど未練があったのだから、死にたくはないだろう。それに寿命もまだ残っていたはずだ。きっと地獄タルタロスで休みをとったら、また復活できる。

 

「結局、何の精霊かは分かりませんでしたね」

 

 ベルさまに話しかけても返事がない。相変わらず表情は厳しい。じっと腐敗した物体を見つめている。

 

「……精霊ではないな」

 

 しばらくしてベルさまがようやく口を開いた。

 

「ベルさま?」

「精霊ならからだは理力に還元される。これは残ったままだ」

 

 確かにそれはそうだ。

 

 美蛇を倒したとき、マリさんを見送ったとき、そして過去の映像でひさめの義姉上が消えたとき……全部、からだは残らなかった。

 

「精霊ではないとすると……」

 

 自分で発言しておいてその先を躊躇う。口にしても良いものかどうか。 


「……人間、か」

 

 ベルさまが僕の言葉を補ってくれた。息が止まりそうだ。今の言葉のせいか、それともこの腐敗臭のせいか。

 

 地獄タルタロスで見た光景が、少しずつ近づいてくるのを感じた。

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