256話 再会への道
「そうだ。妻と言えば、潟。添のことだけど」
壁の氷柱がすっかり溶けるころ、ベルさまが咳払いをして話題を変えた。潟さんは落ちた額を拾い上げて、空いた穴を隠そうとしているところだった。
「雫の書記官ということで王館に入れても良い。本人にその意思があるか、確認しておくように」
「僕の書記官ですか?」
ベルさまはペラッと紙を掲げて見せた。あれは潟さんから送られてき手紙だ。
「あぁ、字が整っているからね。雫の自筆でなくても済むものは任せられるだろう。雫も問題ないよね?」
「勿論です」
僕が持ち込んだ話だ。何の問題もない。もっとも、僕の側に仕えることを添さんが嫌がらなければ、の話だ。
「ベルさまの書記官にはしないんですか?」
僕の下には侍従が二人、侍従武官が一人、あと書記官が一人増える。それなのにベルさまは自分の配下を置こうとしない。
「自分でやった方が早い。太子の仕事を雫が引き受けてくれたから、今までの半分で済むしね」
僕なんて視察の記録だけでもヒィヒィしているのに、理王の業務もこなすなんて、ベルさまでないと出来ない。同じ事をやれと言われたら、それこそ寿命を全うせずに
「妻のことまで気に止めていただき感謝します。雫さま。本日はもうお出掛けにはなりませんか?」
壁に額を打ち付けて氷柱跡を隠し終えたようだ。見映えはこれで良いとしても、ちゃんと直さないとダメだろう。
「今日はもう王館からは出ないよ」
「では、夜も更けましたので、
何せ三週間も地獄にいたらしいから、添さんも心配しているだろう。もしかしたら、また恨み言を言われるかもしれない。
「早く帰ってあげて」
片手を上げて退出の許可を出す。潟さんはベルさまにもしっかり挨拶をして、去っていった。
「王館からは出ない……ね。執務室からではなくて?」
潟さんが去った後、ベルさまがすぐさま僕に話しかけてきた。言外にここにいろと示された気がして、ちょっと嬉しい。
でも……。
「はい。ちょっと行きたいところがあって」
というよりも『会いたい精霊がいる』と言った方が良いかもしれない。
「王館内で行きたいところとは物好きだね。
何だか引き留められるようだ。別に外へ出掛けるわけでもないのに……。
僕にとってはあっという間だったけど、ここでは三週間だ。もしかしたらベルさまはその間、寂しいと思っていてくれたのだろうか。
「ベルさまも一緒に行って欲しいんですけど」
「は?」
僕の行きたい場所は、ベルさまがいないと入れない。
◇◆◇◆◇◆
水流で移動すれば一瞬だけど、敢えて徒歩で向かう。その方がベルさまとゆっくり話が出来る。歩を少し遅めに進めながら二人で並んで歩いていく。
こうやって話すのは、久しぶりな気がする。
内容は事務的な報告だ。けど、ベルさまが僕の話に耳を傾けて、時々感想や意見をくれるから、嬉しくなってしまう。
「待て待て。今の話だと
「え? あっ、あぁ、はい」
ベルさまの偉大さに感じ入っていて、
「接近戦での戦い方を教わりました」
義姉上はナックルという変わった武器を使ってくるので戦いにくかった。それがすぐに免との戦いで役に立つとは思わなかったけど……。
「はは、
ベルさまが髪を耳にかけた。真っ暗な夜の闇にも負けず、銀髪が冷たい明るさを放っている。
「でもすごく元気でしたよ」
「まぁ……霈だからなぁ」
体は潟さんの物だけど、それだけではない強さがあった。絶対的な自信とそれに見合った動きは学ぶことが多かった。
「それと僕の髪を材料にして、
片手を掲げる。袖に隠れていた釧が露になった。それを見たベルさまは片眉を跳ねさせて、薄く口を開いた。
「なるほど、物質の変換か。……知ってると思うけど私がもう片方持っているよ」
「金理王さまが直してくれたんですよね」
金理王さまから預かってきた物だから、知っている。修理に二十年かかったと言っていた。でも実はベルさまがいないときに、引き出しの中に入っているのを見てしまったことがある。
それを思い出して今更ながら罪悪感にかられる。
「そう……雫が片方持ったのか。私も今度から身に着けようかな」
「お揃いですね」
自分で言って恥ずかしくなってきた。熱くなる顔をごまかすように、急いで釧を袖の中に収めた。次いで早口で話の続きを捲し立てる。
免との戦いについては、泰山の話が出たときに粗方の報告はした。そのついでに等さんのことも説明した。ベルさまは
僅かでも記録があるなら目にしたい。資料室に行けば記録があるのかと尋ねた。するとベルさまは困ったような顔で、実家の図書館にあったと言った。
本棚でも資料室でも図書室でもなく、図書館。
つまり建物の中身が全て本。図書館の規模は分からないけど、きっと膨大な知識や記録がそこにあるに違いない。
ベルさまの知識の深さは、そこから来るのかひとりで納得してしまった。いくら理力が強くても、知識がなければ高位でも侮られる。努力しなければ知識は身に付かないし、経験だけでは補えないものもある。
ベルさまは理力も知識も経験も全て揃っている。皆が敬服するわけだ。それに比べ僕は全てが中途半端だ。舐められもするだろう。
「さて、雫。着いたけど、私はどこまで行けば良いのかな?」
着いたのは謁見の間だ。表の重厚な扉ではなく、脇の狭い通り口から入ってきた。
勿論誰もいない。ただ広い空間に僕たち二人がいるだけだ。
「解錠していただけるだけでも良いですが、一緒に来てくれますか?」
ベルさまは玉座の背もたれに手を乗せた。装飾を指先で撫でながら少し考えている。
その間に肘掛けを観察する。土の王館のように隠しがあることを期待して見てみたけど、残念ながら何も見つからなかった。
「私は止めておくよ。ここで待ってるから」
「ここで?」
この豪華だけど無機質な謁見の間に、ベルさま自身は何の用もない。そこにひとり残していくのは何だか申し訳ない。
「大丈夫。ひとりには慣れてるよ」
「ひとりにはしません。すぐ、帰ってきます」
即答した僕にベルさまは少し驚いていた。でもその顔はすぐ笑みに変わった。
「頼もしくなったね。見た目も中身も理力の質も……その姿を見せておいで」
ベルさまが玉座の後ろを開けてくれた。
「行ってきます」
少し屈んで中へ入る。背中にベルさまの視線を感じる。でも徐々にそれが遠ざかっていった。
すでに見知った長い道を下り、階段が映る水鏡までやってくる。迷うことなく足を進める。
「失礼します」
挨拶をしてから入るのは初めてかもしれない。僕が来たことには気づいているはずだ。出てきてくれないなんてことはないだろう。
『何、ホんトにまた来タの?』
予想通り水柱が立った。
目の前というよりも少し距離を取っている。
今までと違い、水柱が少しワクワクしているのを感じた。表情はないけど、周りで楽しそうに水滴が跳ねている。
『まタ、過去を見タイのかナ?』
「貴方に会いに来ました、父上」
父上の水滴が僕の顔に跳ねた。
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