195話 夜の執務室
「ベルさま。あの精霊たちは名前を没収されたと聞きました。一体何の罪を犯したんですか」
ベルさまの動揺には気づかなかった振りをした。そうしないと問い詰めてしまいそうだった。
「罪は犯していない。皆、名に相応しい精霊ではなくなったから名を没収したまでだよ」
さっきまでの僅かな動揺はどこかへ行ってしまったらしい。ベルさまは軽い調子で過去の事実を教えてくれた。
「そ、それだけで?」
「……
確かにそれはそうだ。
でもそれを言うなら僕だってそうだ。一滴しかなかった頃は『雫』でちょうど良かったかもしれない。でも涙湧泉が戻った今、雫という名は僕には合っていない。
そう思うと急に寂しくなってきた。雫の名はベルさまから頂いたものだ。その名が相応しくないと……
「考えていることは大体分かるけどね。雫の場合は、通称を『涙の雫』にしているから問題ないよ」
僕の考えなどベルさまにはバレバレだ。恥ずかしいのと、驚いたのと、ほっとしたのと……色々な感情が湧いて出てきた。
「まぁ、普通はこんなことはしない。名に合うよう理力を調整したり、それでもダメなら名を変えるのが一般的だね」
僕みたいに消滅しかかっていても新しい名を貰うことが出来た。暮さんだって、本名は晩だったらしいけど、暮を真名として上書き出来たという。
「じゃあ、どうして……」
名を変えるのはそんなに難しいことではないはずだ。それなのに何故、名の没収という罰が下されたのか。
「先代理王の希望だった」
意外な答えに次の言葉が出てこない。ベルさまから先代さまのことを聞くのは初めてかもしれない。
「先代さまの残した命令だ。施行されなかったので、私が代わりに実行した。媛ヶ浦の悪夢を終わらせよ、と」
「媛ヶ浦の悪夢?」
ベルさまは軽く頷いて肩の髪を軽く払った。銀色の髪は灯りと月光を反射して、より美しさが際立っていた。
「師匠が帰ってきたら詳しく聞くと良いよ」
その台詞が垚さんと同じ内容だということを、ベルさまは知らないだろう。
引退した理王は王太子の教育をするという。ならば先代さまは僕の先生になるはずだった方だ。
先々代の漣先生が嫌だとか、そういうことではないけど、ただ単純に会ってみたかったと思う。
「どんな方だったんですか?」
弱かったんですか、と聞くのは避けた。垚さんから不敬だと言われたからだ。それにもし本当に理力が弱かったとしても、理王は理王だ。
きっと知識や技術、性格など総合的に秀でている方に違いない。
「……さぁ?」
ベルさまから返ってきたのは素っ気ない声だった。イケないことを聞いてしまったのかと一瞬慌てた。
でもベルさまの様子は本当に分からないという感じだ。首まで傾げている。
「私も知りたかった」
「ベルさま?」
払ったばかりの髪がサラリと音を立てた。ベルさまが下を向いてしまって、表情が分からない。
何故、ベルさまが先代さまのことを良く知らないのだろう。同じときを何百年も過ごしてきたはずなのに何故……。
「それこそ師匠の方が詳しいだろうね。後で聞いてごらん」
ベルさまが再び髪を払った。鬱陶しそうに首の後ろに手を置いている。
「話は変わるけど、
ベルさまは手を首に置いたまま顔を上げた。濃い色の瞳と視線がぶつかる。正面からじっくり見るのは久しぶりかもしれない。
「いえ、まだです。西と南の方から廻ったので、北はまだ一ヶ所も行っていません」
今手川は北の水精の中では最も有力な精霊だ。隣接する土精と
「今手川近くにある天形盆地は、先代木理王の出身地でね。木理が
「はい、ここにあります」
肌身離さず持っている。これのお陰でどれだけ助かっているか。
「……直に持ってるの?」
「えぇと、磁鉄鉱が足りなくて……」
潟さんから貰った磁鉄鉱は残り少なく、腕輪にするには長さが足りなかった。金理王さまから頂いた
「そのままだと落とすよ。
その通りだ。懐にコロンと一粒入れただけだは確かに
「そう致します。それで僕が今手川に行くついでに、天形盆地に行って桜桃を届けてくればいいんですか?」
木理王さまにはお世話になっているし、一ヶ所寄るくらいなら、僕でも大丈夫だろう。そう思っていると、ベルさまは首を横に振った。
「いや、雫が行ったら越権行為だよ。森が行くから途中まで一緒に行って欲しいそうだ」
危ない。また気づかない内に調子に乗った発言をしてしまった。ここにいるのがベルさまだけで良かった。
「それはもちろん構いません。でも森太子は根の道を通っていけるのではないですか?」
花茨城と王館が繋がっているように、天形盆地にも根の道が拓かれているはずだ。
「勿論、根の道は通ってる。でも森も初めての訪問だから、正面から行きたいらしい」
なるほど。
確かに根の道は近道だけど、自分の領地に裏口から入られるような気分になりそうだ。
「途中まで方向が同じだから乗せていってあげるといい」
「分かりました。
とは言っても今は夜。しかも真夜中。
昔の僕だったら熟睡しているころだろう。僕はもう睡眠は必要ないけど、木精はそうもいかない。
夜は呼吸だけなのに対し、昼間は光合成も呼吸もしなければならない。夜の内にしっかり休んでおかないと、太陽の光をしっかり吸収することが出来ないらしい。
「あぁ待って。
執務室から出ようとすると、ベルさまには止められた。話の区切りが着いたので、部屋に戻ろうと思ったけど、今戻ったら控えにいるふたりを起こしてしまうかもしれない。
「今の内に視察の記録をつけると良いよ」
ベルさまはそう言いながら分厚い冊子を渡してきた。
「これは?」
「先々代から使っている視察記録だよ。多分、雫が何枚か書いたら頁がなくなるから、すぐに新しいものにするよ」
ずしりと重い冊子は角が擦れていて、歴史を感じさせた。ベルさまのお仕事を補佐していても、これは見たことがない。
自分の席に着いて明かりをつける。頁を捲るとすぐに見慣れたベルさまの字が出てきた。整って読みやすい字の羅列が、情報を適格に伝えてくる。
更に前の方を捲ると、字体が極端に変わった。先代さまの字に違いない。整ってはいるけど、全体的に細くて神経質そうな字だ。何度も書き直したのか、紙がよれているところがいくつかあった。
更にそのずっと前は、漣先生の字だ。太く自信に満ちた字で、生き生きとした様子が伝わってくる。何て言うかすごく元気そうだ。
字でこれだけ個性が出るのかとある意味感心してしまう。
それと同時に緊張もしてきた。僕がここに記録するということは、後世で誰かがこれを見るということだ。
あとで字が汚いと思われないようにしたい。ペンを持った手がプルプルと震え、影が揺れている。
それを見たベルさまに笑われてしまった。視察で疲れてはいるけど、こういうのも良いな、とちょっと思ってしまった。
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