174話 試練再び
窓に映った自分の顔が無様すぎて、額をくっつける。そのまま窓を割ってしまいたかった。それをノックの音に阻まれる。
「坊っちゃーん。起きてるやろー? というより寝てへんか? 開けてやー」
額を窓から離した。朝と言っても早すぎる。
「漕さん」
自分の声が掠れている。咳払いをしてから漕さんを迎えた。ちゃんと扉から来るのは珍しい。
「おはようさん。朝早くから悪いんやけど、御上からお呼び出しやで」
背中の筋に雷が撃ち込まれたような衝撃が体を襲う。心臓がものすごい速さで脈打っているのを感じる。
「坊っちゃん、驚きすぎやで。御上から呼び出されるなんて今に始まったことやないやろ」
僕が衝撃を受けたのを感じたらしい。確かにあれだけ体が跳ねれば分かってしまう。
「そうですね。でもきっとこれで最後です」
「は?」
今度は漕さんが驚く番だった。情報の早い漕さんだけど、僕が失態を犯したことをまだ知らないようだ。
「僕、び、御上の言いつけを守らなかったのでクビになると思います。……
漕さんはポカーンとしている。口こそ開いていないものの、目はかなり見開かれている。
「今までありがとうございました。もし近くに来ることがあったら、涙湧泉にも寄ってください」
そこまで言ってからふと思った。クビだろうとは思っていたけど、最悪本体没収の可能性もある。
命令違反まではいかなくても、似たような罪は犯しているはずだ。
垚さまは僕が囮だったからちょうど良かったと言っていた。でも言いつけに背いた事実は変わらない。
淼さまの信用を裏切ってしまったのだ。よく考えたらクビで済めば良い方だ。
そんなことになったら母上が悲しむだろうな。それとも美蛇に続いて恥さらしと思われるかもしれない。
「坊っちゃん、何言ってるん?」
ハッと現実に戻ると、漕さんは変な顔をしていた。口は何かを耐えるようにプルプルと小刻みに震え、眉は片方だけ下がっている。戸惑うような、笑いをこらえるような複雑な顔だ。
「まぁ、ええわ。早よ行くで。あぁその前に正装に着替えてった方がええで」
改めて自分の格好を見ると、出掛けたままの装いだった。古い茶色の服は丈が合っていなくて、出た腕や足を布で覆ってある。
免との戦いで所々汚れていて、左足に巻いた布はなくなっていた。
僕が部屋の奥で着替えている間、漕さんは待っていてくれた。いや、もしかしたら僕が変なことしないよう監視しているだけかもしれないけど。
「出来ました」
いくつもの紋章が縫い込まれた衣装がいつも以上に重かった。
「ほな、行こか」
漕さんが一緒に来てくれるらしい。と言っても付き添いではなく護送だろう。こんな立場を味わうことになるとは思わなかった。
「どこ行くん? 謁見の間やで」
「え……あ……はい」
そうか。謁見の間で裁かれるんだ。こんな僕でも高位精霊だから、謁見の機会が与えられたのか。
「坊っちゃん、シャキッとせんと。御上に会うの最後かもしれんで? 会えないままクビになるより、一回だけでも会うチャンスあった方がええやろ? ん?」
漕さんがニヤニヤしている。それは僕を励まそうとしているのか、それとも僕をからかっているのか。
「そうですね。頑張ります」
そうだ。せっかく会う機会を貰えたんだ。最後くらいはしっかりした態度で臨もう。
そう思って顔を上げると、黒い景色の中に赤い髪が現れた。謁見の間に繋がる重い扉の前に仁王立ちだ。
「雫、お前……大丈夫か」
「ごめんね、焱さん。あとで、ちゃんとお別れ言いに行くから」
焱さんに小言を言われる前に先に謝ってしまう。
「何の話だ? お前、今から王た……むぐっ」
「ちょーと待った、焱サマ。ストップストップ」
漕さんが腕の長さを利用して焱さんの口を防いだ。
「面白くなりそうやから、これ以上は黙ってよーな」
漕ぐさんの手が焱さんの口を塞いでいる。そこからジュウジュウと湯気が出ている。焱さんの顔が白い湯気で覆われて見えなくなった。向こうからも僕の顔は見えていないだろう。
ちょうどいい。情けない顔を見られなくて済む。
その間に、顔をパンと叩いて気合いを入れた。扉の取っ手に手を掛ける。
焱さんは漕さんの手を払って、僕からノブを奪い取った。
「待てよ、雫。良いか、落ち着いていけ。もし失敗しても誰も責めねぇ」
何の話?
謁見の失敗って何?
「ダイジョーブや、坊ちゃん。早よ行き」
漕さんが楽しそうに、ササッと焱さんを回収する。焱さんはまだ何か言いたそうだったけど僕から離れていった。
「行ってきます」
「おー、ご無事でお帰りー」
漕さんの掛け声がとても虚しく感じる。ギィと重い扉に相応しい音が鳴って、謁見の間に足を踏み入れた。
「雫、参りました」
自分の声が良く響く。それを聞きながら一歩一歩玉座に近づいた。以前、金の王館で謁見の間に立ったことがある。仲位の僕が立つべき場所で勝手に足が止まるはずだ。
しかし近づくにつれ、緊張よりも不信感が募ってきた。玉座はまだまだ遠い。でも誰も座っていないことはすぐに分かった。
「御上?」
もう一歩、もう一歩と誰もいない玉座に近づく。足は止まらない。明らかに伯位でも越えてはいけない段を昇り、気づけば玉座の近くまで来ていた。
ここまで来たのは二度目だ。以前は淼さまに連れられて、玉座の背面に隠された扉から中に入った。そこで魄失と会って……。
回想をしながら玉座の裏を見ると、まさにその扉が少し開いていた。
あれからずっと開けっ放し? いやそんなことはない。僕が前にここに来たのは月代連山に行く少し前のことだ。それから淼さまは何十回と謁見をこなしている。
淼さまが気づかないなんてあり得ない。
そっと閉めようとして思いとどまる。透き間から淼さまの理力を感じた。わずかだけど慣れ親しんだ淼さまの理力を僕が間違えるはずがない。
思い切って扉を開ける。沸騰した鍋の蓋を取ったように、一気に淼さまの理力が溢れ出てきた。
呼ばれている。ここへ来い、降りてこいと言われている。
躊躇なく扉をくぐった自分に驚いている間もなく、ひたすら長い階段を駆け下りる。淼さまの理力は残り香のようにどこまでも続きている。
一本道だから間違えることはない。ここを辿れば淼さまに会えると確信している。
来たことがあるせいか、前回よりも早く着いた。上りの階段に見えるのは水鏡に映った下り階段だ。淼さまの理力はここで溜まっている。
――行っておいで。私はここで待っている。
数か月前、淼さまにそう言われたのを思い出す。
――何もしなくていいよ。道なりに進んでいればその内戻って来られるから。
戻ってきたら淼さまが待っていてくれる。そんな気がする。
もし会えたとしても、それでクビを宣告されてお別れかもしれない。
でも……それでも良い。このままでは嫌だ。もう一度ちゃんと謝って、十年間のお礼を言って……それからお暇を頂こう。
淼さまに会いたい。
その一心で水鏡の中に入った。前と同じように霧をくぐるような湿気に覆われる。進めば進むほど明るくなるのは前回と一緒だ。その分、後ろは暗くなっているはずだけど、振り返っていないから確認は出来ていない。
『おヤ、また来タの?』
背後から水が湧き出る音がした。
「お久しぶりです」
『うン、そウだね。二回も来タ子は初メてだヨ』
水柱に声を掛けられても足を止めなかった。
『待ッテ待っテ。どコ行くノ?』
今度は前に現れた。進路を妨害される。
「御上の所へ帰るんです」
避けてと言っても無駄だと思ったので、柱を避けて先へ進んだ。
『試練ヲ受け二来たンジャなイの?』
「御上に会いに行くんです。邪魔しないでください」
避けても避けても僕の行くところに水柱は現れる。全然進まない。
『邪魔ダっていウナら、勝手に始めルヨ』
水柱が僕に向かって来た。この感じは知っている。水圧に負けないよう踏ん張りながらやり過ごす。多分この後、来る。
『雫』
予想通り美蛇が立っていた。にっこりほほ笑む兄を無視して先へ進む。その直後、後ろにいたはずの兄は僕の行く手を阻むように目の前に現れた。
『雫、どうして無視するん』
「兄上、邪魔です」
伸ばされた手をバシッと払う。そんなに強い力ではなかったはずだ。それなのに兄は一瞬で凍り、大きな音を立てて砕け散ってしまった。
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