173話 縛る者 縛られる者

 バタ……パタ……。

 

 雫が部屋から出ていった。

 

 近づいてくるときは勢いがあったが、帰りは辛うじて聞こえる程度の足音だ。

 

 私に怒られたのが余程ショックだったようだ。タイミング良く漕が入ってこなかったら、未だに気まずい空気を保っていただろう。

 

そう、報告を聞こう」

 

 返事がない。だが気配はある。

 

「漕?」

 

 やはり返事がない。その代わりにゴトリと鈍い音がした。 

 

 不審に思って椅子から立ち上がる。すると床の上でキラッと光る物体が目に入った。

 

 氷の塊が蝋燭の火を反射して不格好に光っている。そこで初めて漕が凍りついていることに気づいた。

 

 それもそのはずだ。気づけば気温は氷点下。しかもかなり下だ。芭蕉実バナナだって凍るだろう。

 

 そうは液体状態を保ちながら動いている。凍っただけで壊れなかったのは幸いだ。

 

「もーー! しゃれにならへん。上司に息の根止められるかと思たわ!」

 

 解凍してやると人型になった。漕は魚のときは静かだが、人型になるとうるさい。やっぱり凍らせたままの良かったかもしれない。

 

 しかし、しばらく放っておくと雑音がなくなった。言いたいことを言い終えて満足したらしい。

 

「それで首尾は?」

「労いの言葉もあらへんのかい!」

 

 本当にうるさい。早く報告をしてほしい。


 そう思いながら視線を送ると漕は一瞬息を飲んだ。そこまで睨んでいない……と思う。

 

「問題あらへん。華龍さんも長い間、屈辱に耐えてきた精霊や。一族の誉れや言うてたで」

 

 理王会議中に華龍河に使いへ行かせた。勿論、雫についてのことだ。

 

 雫は今や仲位ヴェルだ。華龍からは独立している。いちいち雫のことで確認を取る必要はない。

 

 だが、涙湧泉の管理を代行しているのは彼女だ。筋は通すべきだと判断した。

 

「誉れね……。建前だな」

 

 同意しろとは言っていない。ただ、表面上の理解は得られたと思って良さそうだ。なるべく穏やかに済ませたい。

 

「あとは本人の意思やけど、さっきの様子やと、それどころではあらへんな。御上、言い方がキツかったで」

 

 分かっている。雫の様子を見れば……少しきつく言ってしまったと思う。

 

「早く呼び戻した方がええんちゃう?」

 

 私の言いつけを守らなかった。それに関しては怒りというより寂しさを覚える。命令という形を取らずに、わざと出ていくよう仕向けたとしてもだ。

 

 けれど少しばかりの喜びもある。雫が自分で考えて行動出来るようになった。いつも私の顔を見て次の行動を決めている。

 

 侍従という点では当然だが、私が望んだのはそう言うことではない。

 

「賢くなったよ。良くも悪くも」

「決めたんやろ? だったら早くすればええやん?」

 

 漕の言う通りだ。準備は整った。

 

 同意も取った。根回しもした。時間をかけて取り除ける危険は取り除いた。

 

 性格も能力も十年以上かけて見極めた。だがそれで良いのか。

 

「私は雫を王館に縛ることになる」

「あら、それはあたくしたちも同じよ」

 

 垚の野太い声がした。気配は感じていたが、ちゃんと扉から入ってくることは稀だ。そちらに驚いてしまう。

 

「垚さま、ごきげんようやね」

「漕、久しぶりね。もし話が終わったなら雫ちゃんの様子を見てらっしゃい」

 

 漕は垚の言うまま魚に戻って姿を消してしまった。お前は誰の水先人パイロットだと突っ込みを入れたくなった。

 

「どうした?」

「どうしたじゃないわよ。何、あの態度。雫ちゃんが可哀想よ」

 

 漕にも言われたばかりだ。自覚もあるだけに耳が痛い。

 

「……分かってる」

「分かってないわよ。雫ちゃんたらあたくしの話も最後まで聞かないで出て行っちゃったのよ! それだけ淼サマのことを思ってるんだから大事にしなさいよ」

 

 『淼サマ』を強調してきた。さっき私が雫にそう呼ばれたとき、語気を荒げたのを聞いていたのだろう。

 

「……垚。私は」

「分かってる。アナタをそう呼ぶのは今日で最後にするわ」

 

 垚が片手をあげて私の言葉を遮った。少し移動して勝手にソファへ腰を下ろす。

 

「雫ちゃんは悪くないわよ」

 

 長い足を組みながら、テーブルの上に足を乗せる。誰がテーブルを拭くと思っている。雫の仕事だ。

 

 雫の仕事を増やすな。足を下ろせ……と言おうとして思い止まった。

 

 もう雫に掃除はさせない。

 

「暮の影はちゃんと木太子に結ばれていたわ。その時、暮は雫ちゃんの影も一緒に結んで行ったみたいよ。だから全部は王館から出ていないわ」

 

 垚は雫を庇うようにぺらぺらと喋り出す。雫が市でどれだけ頑張ったとか。純粋で抜けてると思ったら意外としっかり学んでいるとか。見た目に似合わず策士なところが可愛いとか。

 

 途中から関係ないことも入っていた気がする。雫を好意的に見ているのは嬉しいことだ。

 

「影の件は分かってる。木理から聞いた」

「なら何を迷ってるのよ。早くやっちゃいなさいよ」

 

 垚がイライラしたように言う。進まない筆記具を置いて腕を机の上に置いた。

 

「不安だ」

「……珍しいわね。いつも自信たっぷりの癖に」

 

 明日は雨伯が大暴れねと少しばかり不吉なことを言う。あの精霊が大暴れしたら……いや、王館では止めてもらおう。

 

「雫を見極めた自信はある」

「あ、それはあるのね」

 

 当然だ。

 

「でもそれは雫を縛ることになる」

 

 雫に自由に生きてほしいという思う。一方で私を支えてほしいとも思う。矛盾した思いに結論が出ない。

 

 結果的に雫を怒鳴ってしまった。私はどうしようもない馬鹿だ。

 

「何にも縛られないで生きられる者がこの世にいる? 精霊はルールに縛られてるのよ。今更だわ」

 

 それもそうか。そう相づちを打とうとすると、花瓶から勢い良く漕が飛び出してきた。魚の姿のまま近寄ってくる。

 

「……そうか」

「何、どうしたの?」

 

 雫の様子を覗いていたらしい。寝台横の水差しから顔を出したそうだ。

 

 雫は漕の訪問にも気付かず、固まっていたと言う。静かに泣いていることを覗けば人形のようだったそうだ。

 

「別に」

 

 説明するのも面倒だ。垚に話したところで文句を言われるのも分かっている。今だって別にってことはないでしょとブツブツ言っている。

 

 しかし、垚の言う通りだ。何にも縛られずに生きる精霊などいない。それにいくら悩んでも私の心は十年以上前から決まっている。

 

 徐に席を立ったせいで肩に乗っていた漕を落としてしまった。

 

「漕。明日の朝、謁見の間へ来るよ雫に伝えろ」

  

 そのついで指示をした。いつもなら不満気な漕も今は少し生き生きしていた。

 

 

「垚、頼みがある」

 

 垚の座るソファに近寄り、立ったまま見下ろす。しかし、物を頼む態度ではないと思って向かいに座る。

 

「な、何よ。突然」

 

 私の突然の行動に垚が身構えている。

 

「分かってると思うが、私はもう……退位するまで王館から離れることはできない」

 

 純粋な気持ちで誰かと正面から目を合わせたのは久しぶりだ。勿論、雫を除いて。

 

「だからもし雫が道を踏み外すようなことがあれば、迷わず止めてほしい」

 

 身構えていた垚も私の真っ直ぐな物言いに警戒を解いてくれた。

 

「ちゃんとめるわ。それが土の役目よ」

 

 すると何を思ったのか垚が急に立ち上がった。今度は私が警戒する番になった。

 

 一瞬見上げる形になるが、垚はすぐに体勢を低くして私の前に跪く。

 

「拝命致します、水理皇上・・・・」 

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