168話 堕とし穴
「早く! 雫どの、走るでござる」
「す、すみませんっ、通してください!」
市は片付けの精霊と帰る精霊でごった返していた。夜まで開いている所もあるみたいだけど、ほとんどが品を片付け、店を閉める準備をしていた。
目的の建物は見えているのに、思うように進めない。
「木太子が拙者の影を引いてござる。早く!」
桀さんが帰館を促しているらしい。さっきから僕たちの長い影が見えづらくなっている。太陽の位置を確認しなくても、沈みかけているのが分かる。
「ここでござる。何とか間に合った!」
「良かっ……ぜぇっ……良かった」
目的の建物に辿り着いた。通ってきた影は周りの薄暗さと同化してかなり見えにくい。けど、まだちゃんと出てきたところに影があった。
「雫どの、急ぐでござる!」
「ま、待って!」
暮さんはまるで沼にでも飛び込むように影へ沈んでいった。慌てて後を追う。来たときと同じようにやっぱり目を瞑ってしまった。
「ぁ痛っ!」
何かにぶつかった。すぐに僕の部屋に出ると思ったのに、予想外の痛みが襲ってきた。ゆっくり目を開けると、真っ暗な空間が広がっているだけで、僕の部屋かどうかの判断が出来ない。
「
ぶつかったのは先を歩いていた暮さんの背中だろう。そう思い、声をかけながらその背中に手を当てた。
「暮さん?」
手触りがおかしい。いくら暮さんの背中が固くても、布に触れたらもっと柔らかいはずだ。ゴツゴツとした感覚が手に触れる。
岩の感触だ。
目視で確認できないけど僕がぶつかったのは冷たくて粗い岩だ。
「暮さん! どこですか?」
「おや、こんな仕掛けがあったのですね。残念」
暗闇の中から声が響いてきた。どこから聞こえるのか全く分からない。でもこの声は聞き覚えがある。一度聞いたら忘れられない、心地よい声だ。
「ま……
名前を呼ぶだけのに舌がうまく回らなかった。極度の緊張で自分の心臓の音がうるさい。
「声だけで分かってくれるなんて嬉しいですね。お久しぶりです。会いたかったですよ」
手触りで岩の位置を確かめて背中を預ける。免がどこからか来るのか分からない。けどせめて背面から襲われるリスクを下げたかった。
「なん、で王館に」
「王館? 王館は結界が強くて私は入れません。私が入れれば、最初から
莬は僕にとっては嫌な奴だったけど、部下に対してひどい言い草だ。きっと部下から嫌われているに違いない。
「ここは私の場所です。王館への帰り道、ここに繋がるように影の中に堕とし穴を仕掛けておいたのですよ。改めてようこそ、お茶でもいかがですか?」
向こうからは僕のことが見えているのだろうか。暗闇からニュッと茶器が出て来た。ひとり慌てふためく僕の姿を見て楽しんでいるのかもしれない。振り払うと茶器が割れる音と中身の液体が散らばる音がした。
いつもの服は着替えたけど、
「ど、どこだ、免!」
いきなり大きな声を出したせいで、短い台詞なのに咳き込んでしまった。深く息を吸って長く吐き、気持ちを落ち着ける。甘い香りがするのはさっき撒いたお茶のせいだろうか。
「おや、私の姿が見えませんか? それはいけません。もっと近くへどうぞ」
挑発だ。乗るわけがない。例え乗りたくてもどこにいるか分からないけど。
目を瞑っても開いても闇は闇だ。目で探すのを止めて、理力の流れを辿る。けれど途中で途絶えてしまって、結局免がどこにいるか分からないままだ。
「分かりませんか? こんなに側にいるのに」
「っ!」
左耳に息がかかる近さで声をかけられた。びっくりして飛び退く。反射的に思い切り息を吸ってしまったようで、また咳き込んでしまった。
息がうまく吸えない。酸欠のせいか頭がクラクラする。背中の防御にしていた岩から離れてしまったので心もとない。
「やっぱり少し明かりが欲しいですね」
免がそう言うと周りがうっすらと見えるようになった。昼間の明るさや室内の蝋燭に比べたら暗い。黄昏時に海を見るようなぼんやりとした明るさだ。
免が明かりを起こしたせいで、免自身の姿が確認できるようになった。暗くて顔は見えない。服の色も灰色だと思うけど、周りと同化していてよく分からない。ただ、その気配が以前対峙した免そのものだった。
「困りましたねぇ。こんな仕掛けがあるなんて聞いてませんよ」
免が撫でている岩は、さっきまで僕が寄りかかっていた岩だ。初めて人の姿をしていることが確認できた。
「暮さん!」
ぼんやりとした明かりの中でも分かった。その岩は暮さんだ。市で買った僕の荷物を持ったまま固まっている。間違いなく暮さんだ。
「く、暮さんに何をしたんだ!?」
大きな声を出す度に咳が出る。それを落ち着かせるために深呼吸を繰り返すと、鼻から甘くて清涼な香りが入ってくる。
「暮? あぁ、そうでした。そんな名前でしたね。私は何もしていませんよ。これは理王か王太子からの行動制限がかかったのでしょうね」
まさか間に合わなかった?
日没までに帰れなかったから暮さんが石にされてしまったということか。
「太子なら解除できるでしょうが、この感じだと日の光に当たれば元に戻るでしょう。明日には戻れますよ」
ちゃんとお叱りを受けようとは思う。けど、暮さんが元に戻れるという言葉で少し安心してしまった。免の言葉なのでどこまで信用できるか分からないけど、ほっとして暴れる喉と胸を
「ふふっ。私の配下を気遣っていただきありがとうございます」
「配下?」
免が顔をあげたことで楽しそうな表情がハッキリ見えた。理術を放とうとして効かないことを思いだし、腰の剣に手を置く。
「これは私の配下なのですよ。尤も本人に自覚はないでしょうね」
どういうことだ。
暮さんは水の星から来た精霊だって言ってた。まさかそれも嘘で、僕たちを騙していたのか。
免の指示で僕たちに近づいたのか。でも自覚がないってどういうことだ。
頭が混乱している。混乱しているのに何故だか気持ちが落ち着いてしまう。
「彼の真名は『
「晩……」
名を復唱したものの、話をあまり聞いていなかった。頭が朦朧としている。まだ酸欠なのだろうか。
「免の字を持つ者は名を与えるのも奪うのも私の意思ひとつです。彼も私が真名を預かっていますので、そのせいで記憶の大部分を失っています。貴方にも経験があるでしょう?」
十年前のことだ。当時、涸れかかっていた僕は、
自分の思考力が下がっていることに危機感を覚える。そんなに酸欠なのだろうか。ちゃんと息は出来ている。酸素と一緒に清涼感がある香りが入ってきた。
「聞いてますか? ……あぁ、賢者の石を吸いすぎましたね。甘くて良い香りでしょう? 気に入りましたか?」
灰色の靴が目に入った。思ったよりも免が近くにいることに驚く。すぐに玉鋼之剣を抜こうとすると、免に柄を抑えられる。
「月代の水銀に貴燈の硫黄を混ぜて作ったのですよ。微かな甘さが好きで溶かして良く飲むのです」
たった一本の指で柄を押されただけなのに、剣を鞘にぐっと戻される。それならばと膝の後ろを狙って足を繰り出した。
「さっき貴方にも薦めたのですが、溢しましたからね。そろそろ蒸発しているのでしょう」
自分では勢いよく蹴りあげたつもりだったのに、あっさり免に足首を掴まれてしまった。そのまま引っ張られる。体が無様に転がった。
「良いことを教えてあげましょう。賢者の石には鎮静効果がありますが、量が過ぎると催眠状態に陥るのですよ」
反対の足で踏ん張ろうとしたけど、足に力が入らない。足だけじゃない。頭が朦朧としている。脳からの命令が全身に伝わっていない。
「暮も賢者の石の香りを好いていましたよ。一緒に香りを楽しみながら、暗示をかけておいたのですよ」
足を手放されて床に落ちる。大した痛みではない。それなのに足が持ち上がらない。四肢を床に付けたまま仰向けになっていると、額に手を差し込まれた。
「ふっ、純水を汚すのは背徳感があってゾクゾクしますね」
前髪を掴まれて顔を強制的に持ち上げられる。視界が灰色で埋まった。
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