32話 昇格に向けて

「罰を与えるつもりはない」


 びょうさまから声がかかった。良かった。ほっとして兄上を見ると、少しだけ……ほんの指一本分だけ頭をあげていた。

 

「雫は高位ではないから、余の側近でも侍従でもない。ただ、余は雫のお陰で健やかに過ごせている。その点ではいつも雫に感謝している」

 

 顔が沸騰しそう。身内の前で誉められるとこんなにも恥ずかしいのだろうか。

 

 それよりちょっと気になってることがある。兄上は僕のお客だとびょうさまは言っていたけど、僕、あんまりしゃべっていない。……僕必要?

 

おとうとをそのように言っていただき嬉しく存じます」 

「兄に言うのはいささかおかしくはあるが、そのように雫を守ろうという意思は余にとっても嬉しいものである。近頃は季位ディルを守るどころか、さげすむ輩が多い。叔位カールは特にな」

 

 

 おそらく、兄上意外の僕の兄姉を含めた叔位カールの話だ。びょうさまが話を切って腰をあげた。り足でこちらに近づいてくる。兄上はずっと頭を下げたままで腰が痛くなりそうだ。

 

 淼さまがどんどん近づいてきたので、僕も手をついて頭を下げた。もっと早くそうするべきだったかもしれないけど、気がつけばびょうさまは兄上の目の前まで来ていた。

 

「ふむ。叔位カールにしておくには惜しい。増えたという理力もよく馴染んでいる……」

 

 淼さまが膝をついて兄上の前に座った。兄上が少し震えたのが分かった。多分、叔位カールのあるべき姿だ。僕どうしよう。水理王の側にいすぎて感覚が麻痺している。戒めなきゃって思ったばかりなのに……。

 

「その方にその気があれば、仲位ヴェルに昇格させてもよい」

 

 衣擦れの音で兄上がガバッと頭をあげたのが分かった。でもすぐに元の位置へ戻ってきた。失礼だと思ったのかもしれない。

 

「構わない、面を上げよ」


 恐る恐る頭をあげる兄上。僕もそっと頭を上げた。腰が楽になる。

 

「どうだ?」

 

 淼さまは穏やかに尋ねる。

 

「お、おそれ多いことでございます。私など、まだまだ未熟者でして……」

 

 声が震えている。顔は上がっているけど、目は下を向いているようだ。

 

「その謙虚な気持ちを失わないことだ。誰にでも未熟な時はある。だから仲位ヴェルとなって高位として世のルールを学ぶのだ」

 

 淼さまは兄上の肩に手を置いた。親しい者に語りかけるように。兄上は口だけを「御上……」と動かした。感極まるとはきっとこのことだろう。  

 

「今はまだ未熟でよい。雫の兄なら重用しよう。……もう一度聞く。王館で余に仕える気はあるか?」

「は、はいっ! この身がお役に立つならば」

 

 ふと隣を見ると、兄上の表情は引き締まっている。でも声が少し震えているから、きっと緊張と嬉しさが入り交じっているのだろう。

 

 僕も兄上が王館に来てくれるなら心強い。『誰か』がいない今、親しい兄なら色々と相談に乗ってもらえるかもしれない。

 

「あにう」

「ただ……」 

 

 兄上におめでとうと言おうとしたら、びょうさまが僕の言葉に被せるように声を発した。思わず淼さまを見てしまう。

 

「ただ、二つほど問題があるな」

 

 兄上が何も言わないけど、細かく瞬きをして少し戸惑うそぶりを見せた。

 

「ひとつは、ほんの僅かだが仲位ヴェルには理力が足りていないこと」

 

 え、そうなんだ。兄上の理力は、叔位カールにしては多いけど、仲位ヴェルとしてはちょっと足りないんだ。

 

「そしてもうひとつ。その方は今のところ母である仲位ヴェルの傘下にある。後々の禍根かこんを残さぬためにも、母御の承諾も得た方がいいだろう」

 

 母上の支流である兄上が独立するわけだから、母上の許しが必要……なるほど。

 

「び……御上おかみ、昇格すると兄は支流ではなくなるのですか?」

 

 話の邪魔をしてしまうかと思ったけど、思いきって聞いてみた。

 いつもの癖で『びょうさま』と呼びそうになった。人前では『御上』と呼ぶように言われているのをギリギリで思い出した。

 

「雫、無礼だぞ」

「良い。元々は雫とその方の席に余が同席しているだけだ。正式な席でもないし、気軽に発言して構わない」

 

 あ、やっぱりあくまでも同席なんだ。じゃあ、話しかけても大丈夫かな。

 

「雫、その考えは正しい」

 

 淼さまは兄上の前に座ったまま僕を見た。斜めを向いたことで淼さまの長い銀髪が肩から滑り落ちる。

 

「美蛇は華龍から独立し本流となる。そうなると今度は美蛇の支流が生まれるだろうな」

 

 淼さまの説明によると、独立と言っても母上の河から切り離されるわけではなく、母上の保護下から離れるということらしい。確かに兄上は母上に守られているという印象はすでにない。

 

 それから本流になるとそこから支流が生まれる可能性があるみたいだ。兄上は守るべきものが増えて更に忙しくなるだろうな。

 

「一旦昇格は保留にしよう。いずれ、その方には王館に上がってもらいたい。正式な昇格の前に一度、華龍どのに来てもらわねばなるまい」

 

 淼さまはスッとほとんど音をたてずに立ち上がって元の席へ戻っていく。

 

「足りない力にせよ、独立にせよ、華龍どのと話し合わねばならないが……」

 

 母上は体調が悪いって兄上が言ってたから、今、王館に来るのは難しいのではないだろうか。

 

「華龍どのが来るのは難しいだろうな?」

 

 淼さまの目の色が変わった気がした。いつも見ている濃い色ではなく、薄く紫がかった色だ。光の加減でそう見えるのだろうか。


「華龍どのの回復を待ってからでよい。帰ったら謁見の申請をするように言伝ことづてを」

 

 淼さまは席を立つような素振そぶりを見せた。多分折り込んだ足を立てようとしている。

 

「お……恐れながら」

 

 兄上はそれを阻止するようなタイミングで声をかけた。

 

「何だ?」

「恐れながら、母はすぐにでも参ると存じます」

「体調は大事ないのか?」


 母上の体調が悪化したら大変だ。出来れば回復するまでゆっくり休んでいただきたい。

 

「体調は……良くはありません。しかし、出来ますならば一日でも早く母の負担を減らしたいのです。母が体調を整えられるよう、常以上に留意致します故、何卒」

 

 そっか、兄上が仲位ヴェルになれば母上の負担も減るんだ。でも体調が悪くて来られるのかな……。

 

「……分かった。その方に任せよう。私からの登城命令にして条件付きにしよう。明日、明後日ならいずれでも構わない。動けるようなら来るように。体調不良をおして来ることは許さん」

 

 淼さまが言いきった。僕と二人で話をするときとは話し方が全く異なる。命令という言葉を聞いたときに体の底が震えるような気がした。

 

 兄上もきっと同じ気持ちなのだろう。深々と頭を下げて「拝命致します」と返事をしている。

 

 そんな兄上の様子を見ていたら、びょうさまが目の前に立っていることに気づいた。

 

「おかみ……」

「雫、長居をしてしまったが、私は仕事に戻る。兄弟水入らずでゆっくりすると良い」

「はい、分かりました。ありがとうございます」

 

 びょうさまは静かに扉を開けて離れの部屋を出ていった。兄上と二人になる。

 

「兄上、おめでとうございます」

「いやまだ早いさ。母上のお許しもないと。それに少し理力が足りないから、すぐに昇格できるかは分からないな。もしかしたらすぐではないかもしれないな」

 

 兄上はちゃんと冷静に分析をしている。流石だ。慎むところは見習わなくては。

 

「……それはそうと雫、本当に怪我はもう良いのか? 御上の手前、我慢している訳じゃないだろうな? 見せてごらん」


 兄上が急に鋭い目付きになった。


「もう何ともありませんよ? ……ほら」

 

 腕を巻くって兄上に見せる。すぐ治してもらったので傷も残っていない。

 

「本当だ。……良かった」

 

 兄上が僕の腕に触れた。

 

 バチンッ!!


「っつ……」

「兄上?」

 

 兄上が指を押さえている。僕はなんともないけど……。

 

「すまない。静電気だろう」 

 

 何か弾けるような……とても大きな音だった。

 

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