14話 流没闘争

――――二週間後



 僕は理術の復習をおおむね予定通り終わらせた。初級理術およそ一〇〇種、上級理術二種、そして初級理術の組み合わせは教わっただけで三〇〇種ほど。一日中……食事と睡眠以外は本当に一日中特訓をしていた。

 かなりキツかったが、今、僕は達成感に満たされていた。こんなにも、やりきった! という感覚を得たのは初めてだ。指南書の一冊目、二冊目は全てマスターした。


 そんなことを考えながら廊下を進み、びょうさまの執務室の前までやって来た。静かめにノックをする。

 

びょうさま、雫です。参りました」


 お入りという声を確認して、扉を開ける。淼さまは相変わらず机で書類を読んでいた。でも気のせいか、少し書類の山が低くなったような……気がする。僕が近づくとびょうさまはすぐに書類を読むのをやめた。

 

「淼さま、お早うございます。お呼びでしょうか?」




 淼さまから執務室に来るようにというお呼び出しを受けたのは昨夜だ。自室から庭に降りていた時だ。理術を使いすぎたのか、それとも別の理由か気持ちが高ぶっていて眠れなかったのだ。夜風にあたって三ヶ月半を振り返ってみる。

 

 十年間、水回りは僕の仕事場だったが、今はほとんど入ることがなくなってしまった。せいぜいこの庭にある水場を、毎朝顔を洗うのに使うくらいだ。色々なことが急に進んでいる気がする。


 僕の理術の勉強だけではなく、忙しいびょうさまは更に忙しくなっているし、先生まで管理権が増えてしばらく帰ってこない。僕が分からない何かが起こってるんだろう。でも僕にはどうしようもない。淼さまや先生の教えに従うだけだ。


 突然、パシャンッという音がして振り返る。水場に置いた桶に波紋が広がっていた。水が垂れたような小さな音ではない。何だろうと思って覗きこむと、目の前で魚が跳ねた。

 

 透明な魚だ。

 

 以前、僕に手紙を届けてくれた魚に似ている。もう一度桶を覗くと、ポチャと魚が顔だけだした。僕と目があったと思うのだが、すぐに潜ってしまった。何だろう。

 

「雫、そこにいるね?」

びょうさま!?」

 

 思わず右回りで後ろを見て、左を見て、一回転してしまった。どうやら桶から淼さまの声がするようだ。

 

「驚かせてごめんね。一通り練習は終わったみたいだね。お疲れさま」

「はい、ありがとうございます。何とか終わりました」


 桶の水が波打っている。

 

「思いの外、早かったね。失礼なこと言うようだけど二週間で全てお復習さらいするのは難しいと思っていたよ。お見事だね」


 パチパチという音まで聞こえるが、その度に水が跳ねている。少しこぼれたのではないだろうか。

 

「ああ、それはそうと。疲れていると思うんだけど……悪いけど明日の朝、執務室に来てくれるかな」

「はい、分かりました。何時ごろ伺いましょうか?」


 びょうさまからの呼び出しを断るわけがない。

 

「朝と言っていい時間なら何時でも問題ない。起きたのが午後とかだと困るけどね」


 淼さまが笑いながら話すと更に水が震える。

では明日。と話を終えて桶は静かになった。辺りがシーンとする。


 最近、誰かと話したあと一人になると急に寂しくなるのだ。昔はずっと一人だったのになぁ。……ずっと……? ずっとっていつから? 泉が出来てから? それとも兄弟姉妹が冷たくなってから? あれ、……なってからっておかしいな。最初から冷た……あれ?


 思考にかすみきりもやがかかってしまった。何だかよく分からないが、幼い頃のことだ。よく覚えていなくても仕方ない。


 少し寒くなってきたのか、無意識に両腕を擦っていた。明日の朝、早めにびょうさまに会いに行くため、そろそろ休まなくては。先程までどこかに出掛けていた眠気もようやく帰ってきたようだ。縁側から部屋に入るとちょうどいい暖かさだった。よく眠れそうな気がする。心地よい温もりを感じながら布団を被った。




 気づいたらあっという間に朝だった。朝日が高めの位置まで来ていたので、慌てて身支度をしてびょうさまの執務室にやって来たのだ。

 

「おはよう、雫」


 良かった!まだおはようと言ってもらえる時間だった。

 

「ゆっくり寝られた?」

「はい、ありがとうございます」

「早速だけど、ちょっとそこに座って」

 

 淼さまに促されるまま執務机から少し離れたソファに座る。淼さまは引出しを開け閉めすると、すぐに机を離れてソファに腰かけた。

 

「雫。一通り練習が済んだから王館の外に行くんだよね」

「はい。あわさんの言うようにここよりも厳しい条件で理術を使えるか練習してみようと思います」


 個数だけなら結構使えるようになったと思うけど、自分自身の理力がほとんどない分、周りの理力を使うしかない。その理力は皆で共有しているから使いにくい……らしい。僕も未経験なのでやってみないと分からない。

 

「うん。前にも言ったけどそれはいいことだよ。ただし、自分の状態のことも考えて欲しい」

「僕の状態……?」


 どういうことだろう。地位がもっとも低いこと? それとも最下位の季位ディルの分際で理王の側に仕えていること? 理術を学び始める前は一緒に食事をしていたこと?

 

「雫の体、本体のことだよ」


 びょうさまは左手を軽くひねってどこからか氷の瓶を取り出した。中身は見えない。

 

「授業で習ったかな? 水精は何に有利か分かる?」

「あ、習いました。水精は火精に有利です」


 先生の授業で習った記憶があった。水は火に、火は木に……といった感じで、それぞれ有利な要素があるという。びょうさまは頷いて話を続けた。

 

「そう、水精は火の精霊には有利だ。でもわざわざ攻撃したり襲ったりはしない。他要素とも上手くやるのが本来のルールだからね。ただ……」


 びょうさまが言葉を切った。不思議に思いながらも次の言葉を待つ。

 

「火精の寿命は短い者が多いが、中には長く生きるものがいる。そういった者やその身内は水精に恨みを持っているものがいるかもしれない」

「恨みですか? 何があったんですか?」


 淼さまが再び黙ってしまった。聞いてはいけなかったのだろうか。黙っていれば良かったと思っていると淼さまが口を開いた。


「雫は『流没闘争りゅうぼつとうそう』を知っている?」










 雫を呼び出して話をすればするほど、王館の外に出すのが危険な気がしてきた。だが、外に出すと言っても日程は二週間程度。あわから正式な申請があったときに許可をした。ついでに私が頼んでおいた物を届けに来たのだが、あわには親バカだと言われた。断じて親ではない。雫の親は華龍河かりゅうがわただひとりだ。

 

「リューボツ闘争ですか?」

流没闘争りゅうぼつとうそう。数百年前まで遡るが、水精のルール崩壊が起こった事件を総称してそう呼ぶ」


 顔が強張るのを感じる。散々目にしてきたことだが、改めて口に出すとまた雰囲気が異なる。


 雫を見ると分かったような分からないような顔をしている。……無理もない。雫が生まれたのは流没闘争が一応の沈静を見たあとだし、知っていても覚えていないはずだ。補足が必要か。

 

「海が川に侵入し、瀧は崖を昇り、池は流れだし、川は泉を飲み込み、湖は流氷を生んだ。皆、己の覇権を広げようとしたり、力を誇示しようとしたり……あの頃は、全てがめちゃくちゃだった。」


 雫は黙って聞いている。想像でもしているのだろうか。

 

「もちろんそうでなかった者もいる。雫の母上もそのひとりだ。周りの攻撃や浸入にも負けず、自身がどこかを攻めるわけでもなく凛とした大河でいらっしゃった」


 雫の顔から、力が抜けたように感じた。数少ない身内と呼べる者の心配をしていたのだろう。


「ここからが本題だ。流没闘争は水精間の争いだが、火精も巻き込まれた者がいる。水精に不利な火精が関係のない争いの犠牲になったんだ。相手の水精に当たらなかった水球が、たまたまそこで生まれたばかりの火精に当たって消滅してしまったなんてこともあった」

「……可哀想ですね」


 まだましな例をあげたつもりだったが、雫は辛そうな顔をしていた。


 当時を振り返ってみる。悲惨な日々だった。当時、王太子だった私は王館を離れられない王に代わり、毎日毎日戦いを治めるために戦うという矛盾むじゅんした日々を送っていた。

 

「だからその時に被害にあった火精やその身内は水精を恨んでいるものがいるだろう。だが、自分が不利な水精には、迂闊うかつに手を出せないから普段は我慢しているんだ」

「自分や自分の大切な家族が被害にあったら………気持ちはなんとなく分かります」

「だからその恨みは雫に向くかもしれない」


 雫はまっすぐに私を見た。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る