10話 雫と淡

「ああ、それより一、二ヶ月は復習するんだろ?」


 氷を片付け終わったあわさんが再び席についた。僕はその間、水球を集めてひとつにくっつけて、大水球を完成させた。あとでお風呂に持っていこう。


 僕の氷柱つらら水球ボールの処理で食事が中断されてしまったのはとっても申し訳ない。っていうか心なしか部屋が寒い。淡さんが作ってくれた鮭のムニエルもすっかり冷たくなっている。


「うん。明日から一個ずつ振り返ろうかなと思って」

「一通りやったら、一回外に出てみないか?」

「どういうこと?」


 王館の敷地内は守られている空間だし、他の精霊もいないから理術は使いやすい。

 一方、外に出ればもちろん他の精霊との接触もあるし、自由な理力を使える条件も変わってくる。王館内で難易度の高い理術で実戦するよりも、外で日常的に使う簡単な理術を実際に試した方がいいんじゃないか。

 というようなことをあわさんが言ってきた。


「王館は理力に満ちていて使いやすいからな。だからさっきみたいにちょっと口にしただけでも詠唱なしで氷柱つららまみれになるんだ」


 ふーむ。分かったような分からないような。それよりもデザートの焼きプリンが美味しい。もう一個食べたい。


「外に行くなら付き合うけど、まぁちょっとやってみてから考えてみろよ。どっちにしても練習は必要だろ」


 あわさんは最後のひときれのムニエルを口に入れると、自分の分のデザートを僕の方に押しやって来た。食べていいのかな。その前に……僕はそんなに物欲しそうな顔をしていたのかな!? がっついてるみたいで恥ずかしい。


 鮭を飲み込んだあわさんがやる と短く呟いて、慌ただしくお茶を流し込んだ。なんだろう。突然慌て出したみたいだ。


「……悪い! ちょっと仕事だ」

「仕事? 今から?」


 淡さんが着崩していた黄色の着物の襟元をただしながら立ち上がった。そんなに急ぎの仕事があるのだろうか? 僕と同じような仕事をしているはずなんだけど。


「悪いな、食事中に。器は後で取りに来る! じゃあな!」

「あ、いってらっしゃい」


 あわさんが風を切って去って行った。毎日一緒に食事をしているわけではないけど、急に一人になったことで無性に寂しいような気がする。淡さんがくれた焼きプリンを口に運ぶが、先程より美味しく感じないのは……一人だからだろうか。


「仕事かぁ」


 僕の今の仕事は理術を学ぶことだと言われたけど、特訓したらびょうさまのお役に立つ日が来るんだろうか。

 二人分の食器を洗いながら先程までの会話を思い出す。


 あわさんは外で基本を練習するべきだっていう。うーん。どうしたらいいんだろう。この十年、王館から出たことがない。出かけるにしてもびょうさまの許可が必要だろう。


「……淼さま、相談にのってくれるかな」


 身近と言ったら失礼極まりないのだが、ここ十年間で最も身近な存在の淼さま。

 最近忙しいみたいで執務室にいないことが増えた。もしかして今まで僕が邪魔で出掛けられなかったのだろうか。……駄目だ。一人でいるとどうしても悪い考えが浮かんでしまう。


 今日、執務室の前に行ってみていなかったら諦めよう。居ても忙しそうなら声をかけずに戻ってこよう。そう思いながら『気化』を唱えると皿を濡らしていた水滴が見えなくなった。





「というわけなんです」

「なるほどね。久しぶりにここに来たと思ったら、そんなことが」


 夜、執務室まで行ったのだが、音がうるさいかと思ってノックをせずにほんのちょっとだけ扉を開けて中を伺った。案の定、中には誰もいなかったので部屋に戻ったのだが、しばらくするとびょうさまから呼び出されたのだ。


  どうやって呼び出されたのかというと、僕が後でお風呂にいれようとして、部屋の隅に置いておいた大水球にびょうさまが映ったのだ。あとで執務室に来るようにというメッセージを受けたので、大水球は後にしてすぐに向かう。


 びょうさまの机の上には今まで見たことがない量の書類が積んであった。いつも多いけど比べ物にならない。少し待つように言われたので、ソファに座る。淼さまと顔を合わせることも随分なくなってしまったが、そもそも僕の立場で会うことすらおかしい方なので、寂しいとか悲しいとか思うのは不自然だ。


 仕事が一区切りついたのか、書類の山は減っていないが、淼さまが席を立ってソファの方に移動してきたので、僕の悩みを率直に話した。


  先生から、戻り次第王館内で理術の実戦訓練をすると言われたこと。あわさんからは、実戦を断って、その前に初級理術を外で使えるよう練習した方がいいと言われたこと。全部話した。


あわさんは僕が王館に来たときからずっと助けてくれます。困ったときは、いえ、困ったと感じる前にいつも手を貸してくれるんです。先生はこの三ヶ月僕に理術はもちろんですけど、理術だけじゃなくて、僕が知らないたくさんのことを教えてくれます。期間は違いますけど、二人とも僕にいつも最善の助言をくれるからどちらの意見も尊重したいのです」


 言い終わった後に自分の息が少しだけ上がっていることに気づいた。息継ぎもせず、一気に早口で喋ってしまったようだ。肩を上下させている僕とは対照的にびょうさまは冷静に声を発した。


「……二人とも雫のためを思っていることは間違いない。でも二人とも半分正しくて半分間違いだ」


 正面に座る淼さまはお疲れのはずだ。でも僕の話を真剣に聞いて真剣に答えてくれる。


「言っていることはどちらも正しいが、どちらも雫がどうしたいか聞いていない」

「僕がどうしたいか……?」

「そう、雫が。ただこれに関しては私もだな。雫に理術を学ばせるとき、雫の意見を聞かずに決めてしまったからね。だから私も同じ過ちをしているし、その分二人の気持ちもよくわかる」


 びょうさまは間違ってなんていない。最終的には僕だってやるって言ったんだから、淼さまは何も間違っていない。理王が間違うなんてことあり得ない。


「理王は間違わない……か、プレッシャーだなぁ」

「あ、いえ、その。すみません。つい」


 今日の僕はどうも口が滑るみたいだ。ちょっと黙ってよう。


「結局のところ、みんな雫のことを考えているわけだけど、そうだな。今回のことに関して言えば、師匠の方は断るのは難しいだろうな」


 あ、やっぱり。怖いから本当はやりたくないんだけど、あわさんに断れって言われたときに、それは出来ないんじゃないかとは思っていた。


「理王の名により雫の教育を全権委任ぜんけんいにんしてあるから、それに口を出すのはルール違反になる。だから私から断ってあげることは出来ないまではいかなくとも難しいし、雫は……そんなこと言えないよね?」

「そうですね」


 結局やらなきゃいけないなら素直に受けておくべきだ。


「心配しなくても師匠は雫を傷つけるようなことはしないよ。り傷と多少の切り傷は除いてね」


 多少ってどこまで? という疑問は飲み込んだ。聞いちゃいけない気がする。


「とは言え、あわの顔も立てるべきかな。確かに師匠がいない間、ずっと復習だけしているのも効率が悪い。お復習さらいは二週間くらいで終わるだろう。その後は淡の言うように、外に行っておいで。そうだな初めは……実家がいいんじゃないかな?」


 思っても見なかった案に驚いた。実家というと母上のところだ。


「十年間、一度も帰ってないんだからたまには顔を見せておいで。母上の方には私が先触さきぶれを出しておこう。で、あわが一緒に行くって?」

「……はい、そういってました。でも里帰りなら一人で」

「いや……それは駄目だ」


 びょうさまが間髪入れずに却下する。ここまでキッパリ言われるのは珍しい。


「雫はまだ理術の一部を使えるようになったばかり、一人での外出はやめておくように」

「? わかりました。」


 里帰りするのに理術を使うのかどうかよく分からなかったが、とりあえず淼さまに頷きを返した。

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