08話 理術の失敗と成功

「申し訳ありませんでした!」


 僕が土下座しようとすると、腕を掴まれて止められた。止めないでください、土下座で許してもらえるとは思っていませんが、せめて土下座させてください。


「別に怪我がないなら……怪我してないよね?」

「あ、はい。大丈夫ですが、あの」

「寝床も乾いただろうから今日はもう休むと良いよ。疲れたでしょう?」


 びょうさまは優しい。優しさが辛くて、申し訳なくて、涙が出てきた。どうしてこんなに優しくしてくれるのだろう。淼さまの顔をまともに見られない。淼さまの上着の裾辺りを眺めていると、全く濡れていないことに気づいた。


「……私が教えてあげられれば良いんだけど、ルールがあってそうもいかなくてね」


 淼さまは僕が借りてきた指南書を手に取った。それだけはまだびしょびしょだった。


「こういうのは乾かすよりも……『氷結フリーズ』」


 パンッという音を立てて、本が一気に凍りついた。淼さまがそれを下に向けてパタパタと振ると細かい氷の粒が落ちてきた。


「この方がシワにならないんだ」


 そう言いながら僕に指南書を渡してくれた。ぎゅと握りしめる手に力が入ってしまう。


「本当にっ申し訳……」

「これ以上の謝罪は不要だよ。ゆっくりお休み」


 体温に近いぬるま湯のような流れに包まれる。心地よい流れに抵抗できなくてそのまま目を閉じてしまった。









「あの爺……」


 いったい雫に何を教えたのだ。

 しっかり眠りについた雫を寝台に入れると、雫が本を抱え込んだままなことに気づいた。


 第二代水理王の書き上げた水理術指南書の第一巻だ。割と重要な書物だったり、持ち出し禁止だったりするのだが、今取り上げて起こしたら可哀想だ。第一たった今私が手渡してしまったのが悪い。いや、そもそも持ち出し禁止のこの本を雫が持っているのは、あの爺が許可を出したからに違いない。


「全く……」


 残った権力の無駄遣いだ。何が引退した身だ。


  知らず知らずにため息が出る。

  あの爺、私の太子時代も渇きを読めとか言って長い廊下の雑巾がけをさせられたり、潤いを聞けとか言って氷の張った池の掃除をさせられたりしたが、いったいどんな教え方をしたらこんなことになるのか……


「こちらは無事か……」


 一滴の雫を取り出す。簡単には溶けない氷の瓶で守られた一滴が目の前で揺れている。まさかこの水を使わせることはないと思ったが、雫自身が無意識に使ったとしたら私でも師匠でもどうしようもない。


 雫は覚えていないだろうが、昔は……泉があった頃は自由にその水を扱えていたはずだ。その感覚を思い出さないとも限らない。


 今、この雫を失うわけにはいかないのだ。未だ続く水精の長い争い――――流没闘争を終わらせるために。


 雫の部屋を出て執務室に戻る。机の上には山積みの書類が残っている。半分は未処理の案件。こっちは一晩で終わるだろう。もう半分は処理済みの流没闘争に関する資料と書類だ。


  雫には申し訳ないと思っている。

  この争いを解決するために、あの子を巻き込んでしまっていることは分かっている。だが、涸れるべきでない泉が涸れそうならば、それを助けるのもまたルールだ。

 

  ルールによって世を治める理王もまたルールに縛られる。ルール違反か否か、そのギリギリの境界線を見極めなければならない。


  肩から滑り落ちてきた髪が邪魔で払いのける。雫がいつも天ノ川のようだと褒めてくれる髪だ。自分では美しいと言われてもよく分からない。


 本来は雫の成長をもっとゆっくり待つつもりだったが、そろそろ潮時だ。向こうがしびれを切らしつつある今が一気に叩くチャンスだ。


「さて、どう動くか」


 大量の書類の一角に目を落とした。











「気の理力 命じる者は 雫の名 理に基づいて 形をば為さん……『水球ボール』」


 部屋を水浸しに……淼さまが言うには温水プール事件の次の日、僕は水球を作れるようになっていた。あの事件をきっかけに周りの理力が読み取れるようになり、自分の意思で自由に扱えるようになったのだ。今は少し大きめの水球を作ってみた。


「はぁっ……はぁっ」

「少し休まないと、また調整が効かなくなるよ?」


 まだ大きい水球は作るのが少し疲れる。集中力を切らせたらまた前のようになってしまうかもしれない。でもだからと言ってその都度休んでいたら上達しない。もっと練習しないと。


「はぁ……はい、でも」

「あぁ……お茶入れてくれる? ニ人分」

「あ……はい、かしこまりました」


 ここは淼さまの執務室だ。

 恐ろしいことに僕は執務室で特訓をしている。それというのも……


「周りに重要書類とか、無駄に高級な家具とか、なんかの王とかあれば、緊張感があってうまくいくんじゃない?」


 と仰ったからだ。なんかの王……


 いやいやいやいやいやいやいやいや 


 失敗出来ないどころか緊張しすぎて集中できないと思ったが、案外すんなり集中できた。


 でもまだすぐに息切れしてしまう。

 淼さまはきっと、僕が休憩しないのを見かねてお茶を入れるように言ってくれたのだろう。


 部屋の隅にある食器棚から淼さまのカップと僕のカップを取り出す。いつもここで食事をしているせいで、あってはおかしい僕のカップがおいてある。もちろん先生と初めて会ったときに使った高級なカップとは全く別だ。


 二人分の茶葉を入れて少し蒸らしていると、淼さまから声をかけられた。


「水球の次は何て?」


 茶葉が浸ったこのお湯も出せるようになるかなぁとか考えていたので、少し反応が遅れてしまった。


「水球の他は練習しないの?」


 質問の意図が伝わらなかったと思われたかもしれない。淼さまは僕が答える前にもうひとつは質問を重ねてきた。

 

「えっと、先生に言われたのは水球のことだけで、次何をしたらいいかちょっと分からなくて。指南書の頁通りではないみたいなので」


 淼さまにお茶とお菓子を出しながら答える。予習もしようと思ったのだが、進めるところが分からないのだ。最初から始めようと思ったが、不思議なことに内容が読めないのだ。一文字一文字は勿論読めるのだが、何文字か進める毎に分からなくなってしまう。


 僕の理解が足りないのかと思って書き写しても数文字書くと滲んで読めなくなってしまうのだ。紙やインクを変えても駄目だったので、きっと僕にはまだ使えないと言うことなのだろう。……と理解した。


「ふむ」


 淼さまは少し考えながら焼き菓子を齧っている。お茶を片手に寛ぐ姿も威厳があって素敵だ。


「雫、私はちょっと……事情があって直接教えてあげられないんだけど、十六頁を開いてごらん。とだけ言っておこうか」

「? はい。十六頁ですね」


 淼さまはあとは知らないという感じで、お茶を片手に持ったまま書類にサインをする。流石淼さま、器用だ。僕は淼さまに言われたとおり十六頁を開いた。


  ――『氷結フリーズ

  名前の通り凍らせるために用いる理術。空気中の水分を直接凍らせるのは、最上級理術『大気氷結ダイヤモンドダスト』であるため、練習するには不向きである。


 ふむふむ。なるほど凍らせる理術か。

 あれそういえば……読める、読めるぞ! あんなに読めなかったのに! スラスラ内容が頭に入ってくる。不思議だ。


 顔を上げて淼さまを見ると目があった。こっちを見ていたらしい。が、すぐに逸らされた。事情があって教えられないと言っていたから、王は関わってはいけないみたいな決まりがあるのかなぁ。気にはなったが触れない方が良さそうなので、続きを読むことにした。



 ――練習する場合は、あらかじめ水を入れた器を用意するか、『水球』を取得し発生させた後に行うのが好ましい。


 水球……そういえばさっきの水球は……


 と思って再び顔をあげてキョロキョロと部屋の中を見渡すと、あった。水球がひとつカーテンにまとわりついてふよふよしている。取りに行こうとして思いとどまった。


 これもしかして周りの理力を使えばこっちにくるんじゃないだろうか。


 空気中の水分が流れるイメージをする。すーっと音も立てずに水球がまっすぐ帰って来た。


「やった!」


 思わず大きな声が出てしまった。両手で口を押さえて淼さまをみるとこっちを見ようともしていなかった。きっとわざとだ。帰って来た水球を手にして詠唱をする。


「えーと、在るものよ 命じる者は 雫の名 理に基づいて 形をば変えん……『氷結フリーズ』」


 ピシピシピシッ!


  気持ちのいい音を立てて水球が一気に凍りついた。二つか三つ作れば雪だるまならぬ氷だるまができそうだ。


「お見事さま」


  パチパチと言う音がする。泡が弾けるような音に似ているが、振り向くと淼さまが拍手をくれていた。

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