05話 雫と王の先生

「なに? 覚えていないじゃと?」

「いえ、あの……」


 凄まれて思わず口ごもってしまう。


「抑えてください。雫が怯えています」

「あぁ、すまん」


 れんさまの気配がまた穏やかなものに変わった。


「年を取ったせいか昔ほど調整が効かんようじゃ」

「いえ、そんな」

「しかし、覚えておらんとはどういうことじゃ。母御のことはしっかり覚えておるようであるし……」


 そう、僕は泉としての過去があった。

 それは確かだ。

 大河である母がいて、僕を疎んじる兄弟がたくさんいた。その中に優しい兄が一人いた。とても優しい兄は長い川だった。


 それは覚えている。でも自分がどうやって泉の精として振る舞っていたのか。どうやって泉を管理していたのか。漠然ばくぜんとしか覚えていない。もちろん部分部分ではあの時こんなことあったなぁと思い出すこともあるけど。


「十年も前のことですから、忘れていることも多いです。もちろん何となく覚えていることもありますけど……」


 れんさまが黙ってしまった。淼さまも何も言わない。ただ漣さまの反応を待っているようだ。


「……ふむ、それは後で御上おかみに聞くとしよう。最も、わしを呼んだのは……」


 漣さまが口を開いた。僕を見ている気がする。でも先ほどのような威圧感は感じない。かといって穏やかでもない。ひんやりした心地よい力を感じる。


「……流れを読む素質はあるか。まあ、十年も御上の側に付いておれば自然と身に付くかの」

「書類をお読み下さい。貴方への指示書です」


 れんさまが初めて書類に目を落とした。今まで意図的に見るのを避けてきた気がする。でもびょうさまに言われて見ざるを得なくなったようだ。


「任命書は後で出します。報酬は書いてあるとおりです。期間は一年。その間に雫に一通りの理術を学ばせて下さい」

「一年とは短いのぅ。今、何が出来るのじゃ? そなたはこの十年で何を学んだ?」


 何か朝も同じこと聞かれた気がする。


「理術に関しては何も出来ないようです」


 僕への質問をびょうさまが答える。れんさまの動きが止まった。


「どういうことじゃ。何も学ばせなかったのか?」


 漣さまが淼さまを責めるように口調を少し強めた。


「私が貴方に教わったのは水回りの仕事を通して力の動きを読むことです。生活の中で身に付くからと貴方に言われたのでね」


 多分、僕が当事者なんだろうけど、僕だけが話についていけない。でも多分、僕はこれからこのれんさまに何かを教わるんだろうなぁ。ということは分かってきた。


「御上……それは御上が」

「これ以上の問答は無用です。改めて、水理王の名において、貴殿に季位ディル雫の理術教育を命じます」


 びょうさまが次の書類を読み始めた。でもあれは多分、話を切るための読んでるふりだ。


「わしに教育をさせるということがどう言うことか分かっておりますか? この子の意思は確認しましたか?」


 れんさまが額から目にかけてを片手で多いながら、最後の抵抗と言わんばかりに返答を保留している。


「雫、こちらへ」

「はい」


 びょうさまの机の前まで移動する。淼さまは書類を下げ、机の上で手を組んでじっと僕を見上げてきた。


「雫には王館で働きながら、もっとゆっくり学んでもらおうと思っていたことがたくさんあった。だがちょっと事情が色々変わってきて思いの外、時間がない。雫には前もって相談すべきだったとは思う。でも明日からはここでそこの漣氏から理術を学んでほしい」


 淼さまは昨日、僕に家事の代わりに勉強してもらうと仰った。ここに住まわせてもらっている対価が、家事労働から理術の勉強に変わるだけだ。


「僕はここに住まわせて頂いているだけで充分ですので、びょうさまがそうしろと仰るなら喜んで致します」


 背筋をただして淼さまに返答をする。淼さまは姿勢を崩さないまま口の端を引き上げた。


「御上……罪悪感はないのですか」


 後ろの方かられんさまの声が聞こえる。淼さまの側を離れて漣さまの目の前に立った。


「漣さま、よろしくお願いします」


 漣さまが顔をおおっていた手を外して僕の姿を捕らえる。


「本当に純粋な子じゃな。……仕方あるまい。老体に鞭打つとするか」


 漣さまがスッと立ち上がった。自分のことを年寄りだと言っていたわりに動作が俊敏しゅんびんだ。背筋も伸びていて、しかも僕より背が大きい。

 机の前まで数歩進んで漣さまは片膝をついた。


「拝命致します、御上」


 こういうわけで僕は明日から理術の勉強をすることになった。

 家事は誰がやるのかということがちょっとだけ気がかりだった。



――――次の日


「そろそろ休憩するかの」

「ぜぇ……まだ大丈夫……です」

「そうは見えんがのぉ」


 僕は今、雑巾掛けをしている。長い廊下をひたすら四足歩行で走るのはなかなかきつい。こんなに一気に雑巾掛けするのは初めてだ。しかもこれが家事ではなく、授業の一貫だそうだ。


 さかのぼること一時間前。


「先生、今日からよろしくお願いします!」


 今朝、いつもの癖で厨房に行きそうになったところではっと思い直して、指定された部屋へ向かった。今まで鍵がかかっていて入れず、掃除もしなくて良いと言われていた部屋がある。


 資料室だ。図書室といっても良いかもしれない。本やら書類やらがたくさん詰まっていて、

 僕は今日からここで理術の勉強をすることになっている。


「なんか、くすぐったいのぉ。御上には先生なんぞと呼ばれなかったのでな」

びょうさまは何とお呼びしていたのですか?」

「その頃はまだ引退して間もなかったのでな、前の役職名で呼ばれていたな」

「じゃあ、やっぱり先生と呼ばせてください。」

「そうか」


 れんさま改め先生は頬をポリポリとかいた。


「それで、僕はまず何をしたら良いですか?」

「……まずはその前掛け《エプロン》をとるところからかの」


 恥ずかしい。厨房に行くつもりだったからいつものように前掛け《エプロン》をしてきてしまったようだ。


「あ、いややはり待て」

「?」


 赤くなりながら前掛け《エプロン》を外そうとした僕の動きを止めて、先生は少し考え始めた。



 それからしばらく雑巾掛けをして、今に至る。これも理術の特訓なのだろうか。


「しかしのぉ、早くせんと乾いてしまうぞ」

「はいっ……ぜぇ……おっ……っいだっ」


 ゴロンゴロンッと勢いよく転がった、僕が。

 右側の壁にぶつかって思いの外痛い。


「大事ないか?」

「……ぜぇっ……ぜぇっは……いっ」

「そのまま休憩」


 僕がするように言われたのは、この長い廊下を全面同時に水拭きすること、だ。頑張って全速力でやってみた。でも次の場所を拭いた時からその前の場所はすでに乾いている。どうやっても無理だ。


「そのまま聞くのじゃ。雫、いくらそなたが若く、体力があったとしても、この長い廊下を同時にというのは無理があろう。そもそも『同時に』という時点でまともにやったのでは不可能なのじゃよ」

「ぜぇ……ぜぇ……はい」

「頑張ったのは認めるがの」


 呼吸を整えながら体を起こした。いつの間にか先生は隣に立っていた。


「ちなみにわしならこのようにやる。『水拭清掃アクアワイプ』」

「え……?」


 一瞬しか見えなかった。でも今、波のような水塊すいかいが廊下の床を撫でていった気がする。


「どうじゃ? 理術を用いるとこんな感じじゃな。ピカピカじゃろ?」


 先生はふふんっという様子で僕を見下ろしている。先生の言うとおり床がピカピカに光っている。僕の顔も写りそうだ。


「水で……拭いた?」

「そうじゃ。水で一気に拭く。これぞ究極の水拭き。まぁ、何が言いたいかというと……」

「これが理術。すごい……これなら掃除が早く正確に出来ますね!」

「…………………………そうじゃな」


 広い王館では掃除をするのも大変なのだ。部屋や廊下など掃除しだすとすべて終えるのに1週間以上かかる。そうするとはじめの頃掃除したところはもう掃除が必要なのだ。

 理術すごい。是非学びたい。


「……何か理解を間違えている気がするのぅ」


 先生が何か小声で呟いていた気がするが僕は早く理術を身に付けたくてそわそわし始めていた。

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