予感
身寄りのない少年はその街でくず鉄を拾い集めて生きていた。
くず鉄集めは、最も乞食に近い仕事とみなされている。苦労は多く、利益が少ない、そして単純すぎた。少年は、錆びついたくぎを眺めつつ、自分の命が自分にとってごみとしか思えないものに結び付けられていることを考えた。掌の上の頼りない重さ。ざらついた手触りと、独特の臭い。干からびたなめくじのような形。
道端に転がっていたもの。誰も気に留めないもの。あってもなくてもいいもの。
しかし、俺にはこれが必要なんだ。……少年は握ったくぎを見つめながら歩いていた。そのせいで、昼間から酔ってでたらめな歌をがなっている青年二人が向こうから歩いてきたときもそれに気付かず、正面からまともにぶつかった。一方の青年は、ビリヤードの玉のように跳ね返されて歩道と車道を行ったりきたり、もう一方は人差し指を突き出して聞き取れない言葉を叫んだかと思うと、その場にうずくまり吐いてしまった。薄桃色をした消化寸前の何かが広がって、少年のぼろい靴を濡らした。立ち込める臭気。少年はえずいてしまう。しかし胃の中のものをぶちまける心配はない。胃の中のものがないため。
日が暮れると、少年は一日の収穫をわずかな金に換え、さらにその金を粗悪なパンに換え、ねぐらに帰っていく。ねぐらは十年以上前に火事で半壊した教会である。当時ちょうど移築の計画があったので、すぐに新たな教会が建てられ、どういうわけか古いほうは放置された。取り壊されると言われていたが、なかなか実行されず、そうこうするうち子供がどこからか湧いて出て住みついた。街の住民たちは、悪意があるのかどうか、この朽ちた建物をネバーランドと呼んでいる。
身廊では、少年と同じような境遇の少年少女が十数名、空腹をこらえて夜を過ごそうとしている。寝ている者もいれば、談笑する者たちもいる。ステンドグラスによって濾過された月の光が彼らの頬に当たる。石でできた床の上に寝転がりながら少年は、何年か前に死んだ友人のことを考えた。物乞いをするため猟銃で体の一部を吹き飛ばして不具(かたわ)になろうとしたが、暴発をまともに食らってしまった。慣れ親しんだ友の何分の一かは、その場に居合わせた少年の顔に張りついた。
金を稼ぐことに関して、友人がそれほどになりふり構わなかったのにはわけがある。幼い妹がいたのだ。当時はまだ歯の欠けが覗く、愛らしい幼女だった。成長した彼女は今もこの教会で暮らしており、幼くも娼婦として働いている。少年は彼女の客になったことがある。客と言っても、結局行為には及ばず、腹の足しにでもしてもらうつもりで金だけ渡した。馬鹿にするなと言われ、泣かれた。それからというもの彼女とうまく話ができず、距離を置いている。
寝転がって少年は考えた。この教会の代わりに建てられた新しい教会のこと。日曜日にそこへ通う少年少女のこと。自分たちとまったく同じ、しかし決定的な差のある彼ら。何が違うのか? いい服を着ている。太っている。学校に通う。文字が読める。甘いものを買い与える親がいる。なるほど致命的かもしれない。死んだ友人はなぜ死んだのか。この教会を去った仲間はどこへ消えたのか。明日も鉄くずはちゃんと地面に転がっているだろうか。もし鉄くずがなくなったら、どうすればいいのか。同世代の少年たちの中には体を売るやつらもいるらしい。自分にそんなことができるだろうか。いったいどんな具合なんだろう。やっぱり痛いのか。どんなことを考えながら行為をするのか。
娼婦として働く彼女のことが頭に浮かんだ。彼女は、している最中何を考えているのだろう。それはまったく少年の想像の範疇を超えていた。
ふいに、自慰がしたくなった。だが実行はしない。腹がすくし、虚しくなるだけなのだ。少年が最後に自慰を試みたのは二週間前で、幼い娼婦のことを想像しながら、した。空想の中で彼女に淫らなポーズをとらせ、劣情を駆り立てる台詞を言わせた。今にも達しそうなちょうどその時、急に記憶の蓋をこじ開けて死んだ友人が現れ、少年の頭の中で再度はじけ飛んでみせた。射精することはなかった。汗によって冷えた体と、ぜえぜえ切れた息と、空腹と、気怠さと、手にこびりついた粘液と……。どうしようもなく頭は冴えわたっていた。少年が自慰をこらえたのは、本当は死人の再登場を恐れたためでもある。
空腹と欲求不満を忍びつつ、窮屈な穴に吸い込まれるようにして少年は眠りに落ちた。それから夢を見た。
夢では、真夜中の街が燃えていた。夕暮れ時のように橙に染まった街。多くの人々が言葉にならない叫びをあげながらてんでばらばらな方向へ逃げ惑っている。顔が真黒な老人、上半身が燃えている婦人、吠える犬、泣く赤ん坊、これらみんな火の粉を浴び、炎にあてられて。
少年は、誰かの手を握りながら走っていた。掌に感じる他人の肉の肌触り。いつまでも走り続けられそうな気がした。どんどん暗いほうへ、人のいないほう、この街の外へ向かっていく。いずれは海に至るはずだ。
目覚めると夢精していた。
一日中ずっと、少年には焼け焦げていない街の存在が不思議だった。
その晩も、業火に包まれた街から走って逃げる夢を見た。
次の晩も街は燃えていた。
その次の晩も、さらに次の晩も、いつまでも街は燃え続けた。その炎は日を重ねるごとに強くなっている気がした。警告のような火だった。
そして現実の街はというと、炎の勢いに反比例してその現実味を薄めていくのだ。影を付け忘れた絵を見ているようだった。当然、仕事の能率は下がった。絵の中から、鉄くずを見つけることなどできはしない。
一週間同じ夢を見続けた少年は、四六時中物思いにふけるようになった。朽ちた教会の隅に腰を下ろし、一点を見つめて黙っているさまは不気味であり、仲間たちは、もともと暗いところのあった少年の精神がとうとう一線を越えたのだと陰で噂する。そして、彼について意地悪い冗談を言い合っては笑うことで、それが自分に訪れなかったことへのおぼつかない安堵をことほぐのだった。
あくる朝少年は、二人きりになりたいと死人の妹に声をかけ、教会の外へ連れ出した。教会裏手には森が広がっていて、少年の足はその奥へと向かった。突然の申し出だったが、少女は無言、無表情のまま少年の背中を追った。久しく口を利かない相手に、人気のない場所へ連れていかれるという状況に対し、警戒心がなさすぎるように思えた。うまく喋れるか心配で落ち着かない少年は、いくどか振り返って少女がいるのを確かめた。娼婦として繕う前のその顔立ちはほとんど処女に見えた。少し汚れたその頬、形のいいその鼻、幼い時と変わらず欠けたままのその前歯、こういったものを盗み見ながら、少年はなぜか罪悪感を抱いていた。
十分ほど歩いてやっと彼らは立ち止まった。少年はうつむき加減で傍らの木の根元に腰を下ろし、それから顔を上向けて立っている少女を見据える。しかし木漏れ日の逆光でよく見えない。
「何の用なの? いきなりだったから、驚いたよ」
「うん、聞いてくれ。真面目な話なんだ」
「こんなところに連れてきてまで不真面目な話、したら怒るから」
「冗談って思うかもしれないけど、そうじゃない」
「聞かないことには、始まらないし……」
数年ぶりの会話はこんな風に、なかなか快調な滑り出しを見せた。少なくとも長い沈黙の入り込む余地はなかった。
少年は自分の見た夢をとうとうと語った。少女は黙っていた。少年は、自分の気がふれていると思われることを恐れなかった。
「予兆なんだよ」
「…………」
「今朝の夢に誰が出てきたと思う? きみの兄さんだったよ。この夢は、警告なんだよ。夢には必ず君も登場する。メッセージだ。君を連れて逃げなきゃ。この街は壊滅する……」
「…………」
「予感でしかないけど、きっと本当に起こる。本当に。君、疑ってるよね。そういう顔だ。でも本当のことだ。壊滅するんだ。いつ起こるかわからない。ひょっとしたら今日かもしれない。その前に逃げなきゃいけない。そのあとどうやって暮らすとか、そういうことは後で考えればいい」
「…………」
「義務だと思うんだ。なぜかは分からないけど、僕が選ばれた。ふだん、神は信じてないけど……とにかく、選ばれたんだ。僕だけじゃない、君も」
「…………」
「君も選ばれたんだよ。ああ、君と僕だけじゃない、ほかにも多分『選ばれた人たち』がいるんだろう。でもこの街に暮らす大多数の人は選ばれてない。知らない。火事のことを……多分その時が来たら、死んだり、火傷を負ったり、何かさまざまの不幸を味わうんだろう。そういう運命なんだ。どうしようもない。そういう人たちが死ぬのは運命だ。僕たちがそれを逃れるのも運命だ。何が言いたいのか、分からなくなってきた。ええと……つまり…………」
「…………」
「とにかく、逃げよう。今すぐに」
ここで、少しだけ沈黙がさしはさまれた。少年にはその間隙が永遠に思われた。
少女が口を開いた。
年老いた魔女は秘密の小屋にこもって薬をかき混ぜていた。四、五歳の子供がすっぽり収まってしまいそうな大鍋と、そこに満ち満ちたどろどろの、薄桃色の液体。
年老いた魔女は年老いた眼球で鍋の中を覗き込んだ。そして年老いた鼻でにおいを嗅ぎ、年老いた顔を歪ませて笑った後、年老いたくしゃみをした。魔女はこの結果に満足していた。
鍋の中で煮られているのは、未だ何人も目にしたことがない、この年老いた魔女オリジナルの薬である。それは魔女の頭の中だけにある計算式でもって、非常に厳密に調合された薬であった。
鍋には、一世紀を超える年月を経て様々なものがぶち込まれてきた。
草花の汁に木の皮。
鼠のしっぽ。
猫の髭。
犬の舌。
鶏のとさか。
蛙の血。
湖水。
山奥から運んできた泥。
魔女の母親の爪。
死体の髪の毛。
硝子。
雨水。
金粉。
猿の精液。
赤錆。
持ち主不明の靴紐。
まつ毛。
ピクルス。
経血。
カカオ豆。
古書の一頁。
木の皮。
耳の毛。
…………。
でたらめに見えるかもしれないが、魔女にとってはでたらめではない。朝から晩まで必死になって考えた末、これらの成分を加えるか否か、加えるとしてどのくらいの量が適切かを決定するのである。時には椅子に座り込んで何時間もうんうん唸っていることがある。計算しているのだ。そしてそういうとき、この年老いた魔女の顔は、普段でも醜いのにいっそう醜く歪むこととなる。
魔女はひどく醜い。まず右目がないのがおそろしい。右目は、十数年以上前に煮えたぎる鍋の中へ投げ込んでしまった。しかしそれがこの老婆の醜さの原因ではない。もとより他人をぎょっとさせる顔立ちなのだ。質の悪い紙をぐしゃっとつぶして中途半端に開いたような顔である。あなたもたぶん、公共の交通機関などでこんな顔に出くわしたことがあるだろう。例えばバスに乗っていて、そいつの顔がふっと視界に入った途端、驚きつつも意識の外に払いのけようとするが、なかなか払いのけられない。どうしてもその存在が気になって仕方ない。どうしようもなく、結局じろじろ見てしまう。そのあとでじろじろ見るのは失礼だと思って視線をそらす。すると今度は視線をそらすのが失礼にあたる気がしてくる。見つめたり、見ないふりをしたり、適切な態度を決めかねたまま、頭の中を掻き乱され、こんな顔の持ち主がなぜこのバスに乗っているのだと、腹さえ立ってくる。そんな顔。
魔女は三百年ものあいだそんな顔をぶら下げて生きてきた。そのせいなのかどうか、今の今に至るまで処女である。一度だけ異性との交際経験があって、その相手は人間の男であった。二人は一か月ほど幸せな時期を過ごしたが、もとより男のほうは本気でなかった。男の浮気がばれたあと、魔女は彼を殺し、肉体を細かく切り刻んで鍋にぶち込んだ。今ではもう骨も残っていないだろう。
この老処女は、自分の半生を薬につぎ込んできた。今鍋の中で煮えたぎっている液体は、魔女の日記であり、精神と言える。
差し込んだ夕日の加減で、たまたま液体の表面が血のような紅に見えた。本当にそれは彼女の血かもしれない。その奥底を覗き込みながら、魔女はふいに自分が死ぬのではないかと考える。体も弱ってきている。ひょっとすると今日寝ている間に死んでしまって、明日の朝には冷たくなっているかもしれない。そうしたら一人暮らしでほかの者との付き合いも悪い自分のことだから、いつまでも発見されないだろう。いや、そんなことはどうでもいい。自分が死ぬことよりも、薬が、この素晴らしい薬、美しい薬が、完成されないまま放置されることが、想像するとよっぽど恐ろしかった。この偉大さを理解できる者はいないだろう。彼女は自分がほかの魔女たちから気違い扱いされ、嘲笑されていることを知っていた。笑いたい奴は、勝手に笑え。しかしこの、この薬だけは。
数日前から、予感がするのだ。もうすぐ薬が出来上がりそうだという予感。誰も見たことがない魔法の薬。それを使って何かしたいのではない。心血を注いできたこの薬が完成するところを、この残った左目で見届けて、納得したいのだ。
納得したい。
森の奥で孤独に暮らす老人はいまや一匹の動物に近い。獣の毛皮にくるまって眠ったり、石によって兎を
彼がいつからそのような暮らしをしているのか、よく分からない。彼なりの言語を持っているのだが、それはずっと一人の人間の頭に閉じ込められていたため、ひどく変形・改竄されてもはやこの老人にとってしか意味をなさなくなってしまった。
とにかく彼は野生の本能の赴くままに生き、何もなければあと十年以上は同じように健康極まりない生活を続けていくだろうと思われた。
あるとき彼は尖った石を手に取り、数時間もかけて木の幹に字を刻み付けた。ふいに湧き上がってきた衝動によってとしか言いようがない。自分は何故こんなことをしているのだろうと思いながらも、そうせざるを得なかったのである。その文字はだいたいこんな意味だった。
自分は満ち足りている
自分は満ち足りている
自分は満ち足りている
そして最後に、もう一文を加えた。それはこんな疑問文だった。
あなたは満ち足りているか?
きっと誰かが答えてくれるという予感があった。明日、また見に来よう。
くずかご @largent
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