くずかご
@largent
押し入れ
何かを探していた。何を探していたかは忘れた。大したものではなかったんだろう。
押し入れに詰め込まれた本や洋服、斜めの額縁にからくり時計といった品々を掻き分けると、がらくたの裂け目から五、六歳の男の子のひざがしらが覗いた。かれは体育座りで俯いていた。顔は影になっていてよく見えない。
僕に弟はいないし、遊びに来た親戚がいま家にいるわけでもない。見知らぬ他人と思えた。
「きみは誰ですか。どうしてこんなところにいるんですか」
「僕は、ぼくです。つまりあなた」
ということはかれは僕なのだろう。五、六歳の頃のぼくである。妙に腑に落ちるところがあった。しかし今から考えると、あの時あんな単純に納得してはいけなかったのだ。
「どうしてこんなところに隠れていたの。なぜ出てこないの。ここが好きというわけではないんだろ。かくれんぼでもないだろう。何か嫌なことがあって隠れていたの。君どうも泣いているね。薄暗がりのなかで君の頬を伝う曲線が光って見えるよ。悲しいのか」
「悲しい」
「なぜ」
「殴られた」
「誰が殴ったの」
「お父さん」
「そうか……そうか。こんなとこに入っていて……つらかっただろう。お腹もすいているだろうし、ちょっとこちらにお出で」
彼はかぶりを振った。何人をも閉ざしているように見えた。
「こんなところに入っていちゃだめだ。押し入れの中には人肉を食う蟻が湧いたりするんだよ。齧られてしまう。怖いだろ。出てこなくちゃ。蟻はともかく病んでしまいそうだ。出て来い」
「いやだ」
「なぜ嫌なの」
「なぜもなんにもない、いやだ」
自分はこのように頑固だっただろうか。かれは本当に僕なのだろうか。ちょっと信じられないような思いだ。
「お父さんが怖いのかい」
かれの顔がいっそう蒼ざめたように感じた。だがそのとき蒼ざめていたのは僕の顔だったかもしれない。
「怖がって出てこないんなら教えてやろう。あいつはね、いま隣の部屋で死にかけてる。もう寝たきりなんだ。寝たきりってわかるかい。もう布団から起きて動けないんだよ。自分のうんこやおしっこも僕やお母さんにしてもらわなければままならないし、たまに思いついたように喋ったかと思えばその内容も覚束ない有様。たしかに、僕がきみだった頃はあいつもぴんぴんしていて、酒癖が悪く、気に入らないことがあるとしばしば僕なんかは殴られた。そして、そう、思い出した、あるとき僕はそんな風に殴られてこんな風にうずくまって押し入れの中に閉じこもってしまった。それから長い時間ここに納まっていて、そのまま何日も何日も飲み食いもせずトイレにさえ行かないまま過ごし、とうとう成長した僕に発見されるまで押し入れを出なかったんだね。きみの気持ちは分かる。よく分かる。でも恐れることはないんだよ。あいつはもう、よぼよぼになって弱って、触っただけで腐って死んでしまいそうだ。もうどうしようもないんだ。見ればいい。もはや何もできない肉の塊だ。間抜けだぞ。人間最後にはああなる。怖いことなんてあるもんか。こっちにこいよ見せてやるから。見た方がいいぞ。来い。いいから来い」
思わずかれの白い腕を掴んで引いた。
「いたい」
かれはさらに泣きはじめた。泣きじゃくる顔は酷く醜かった。
僕の中に苛立ちが燃え始めた。なぜこんなやつがここにいるのか。こんなかび臭い薄暗がりで醜く泣き暮れているのか。僕の苛立ちは硬質で鋭いすがたに変形し、果物ナイフのような殺意を醸成しつつあった。胸の中の冷たい刃は、いつの間にか僕の湿った掌のうちに殺意のような果物ナイフとして握られていた。
かれの目が、それを捉えたようだ。蒼白な顔がもっと蒼白になり、蒼白そのものになった。僕の手は刃物の柄を握り直した。
腕を伸ばすと、自然とステンレス鋼の鈍いきらめきは男の子の胸に吸い込まれていった。赤黒い液体が溢れだして僕の手を汚した。かれが暴れるかと思ったが、蛙の潰れるような声と一筋の涎を出したきり固まってしまった。顔面の蒼白さは次第に土気色に変じた。まさかこの凶器を洗って林檎の皮をむく気にもなれないので彼の胸に突き立てたまま手を離した。押し入れの戸を閉め、洗面所で手をよく洗ったあと、ガムテープであの押入れの周囲を塞いで容易に開けなくした。その日は眠りに落ちるのがとても早かった。
数週間たつと、押し入れから肉の腐った臭いが漂ってきて堪らなくなった。小蠅も戸の周りにまとわりつくようになった。中の死体をちゃんと処理しようかとも思ったのだが、いちど封印した押し入れを開けるという行為そのものに気が進まなかった。
ある朝警察がやってきて、あの押入れを開けろと言われた。母が呼んだそうだ。できれば開けたくないのですがと言いながらガムテープを剥がし、戸を引くと、本や洋服、斜めの額縁にからくり時計といった品々の向こうに、胸から果物ナイフの柄を生やした父が腐りかけで転がっていた。
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