26 女房気分

 ある夕方、六時五十分に玄関の扉が開くのが聞こえた時には、読み通りの展開に思わず歓声を上げそうになった。廊下に出て声をかける。


「お帰りなさい」


「おお」


 いつも通りの無愛想な反応にむしろ安心する。ちょうど舞茸まいたけと豆腐と油揚げの味噌汁ができ上がったところだ。風呂に入ったところでヒヨドリを揚げ始めればちょうどいい。


 一希の計算通り、あと一歩で理想のキツネ色、というところに湯上がりの新藤が顔を出した。


「あ、もうじき揚がるとこですから、先に召し上がってていただけますか?」


「ああ」


 台所のテーブルにはすでに一人分の煮物を用意してある。今日はひじきと里芋さといも。味付けは一希の自己流で、父の晩年の好物でもあった。


 湯気の立つご飯をよそってテーブルに出してやると、その茶碗と煮物の鉢を、新藤はその場で掻き込む代わりに座敷に運んだ。なるほど、今日は数日に一回の割で訪れる「座って落ち着いて食べる日」らしい。


 台所と座敷の間の戸は新藤が寝ている時や着替えている時以外は基本的に開いたままになっているため、座敷の絵面えづら自体は一希も徐々に見慣れ始めていた。


 真ん中に年季の入った小豆あずき色の座卓、その向こうの壁にこれまた古びた本棚、右手の廊下側に小型のテレビ。しかし、座卓に茶碗と鉢を置き、テレビを点けて座布団に腰を下ろす新藤の姿は未だに新鮮だ。


 皿に上げた唐揚げと味噌汁を持っていってやると、煮物はもう半分以下に減っていた。


「お待たせしました」


「ん」


 礼の言葉はもとより期待していない。新藤が一瞬何らかの音声を発して反応し、わずかに視線を上げてくれるだけで全てが報われた。


 補助士を目指しているだけの一素人、しかも過去に例のない女子を、そばに置き、生活費を引き受け、部屋まで与えてくれているのだ。どれだけ感謝してもしきれるはずがない。自分にできることは何でもするのが筋だと心から思っている。


 一希はいつも通り台所のテーブルに自分の分の料理を並べた。黄ばんだテーブルに、座面がところどころ破れて中の黄色いスポンジが見えている椅子。それすらすでに居心地のよいものとなっていた。


 普段よりくつろいだ様子で口を動かす新藤と、彼が眺めるテレビのニュース。ちらちらと交互に目をやりながら一希自身も箸を進め、心の中で自画自賛する。


(うん、おいしい! やっぱり揚げ立てが一番)


 夏場のヒヨドリの締まった肉は、唐揚げにして骨ごとバリバリ食べるのが冴島家の定番だった。しっかりと下味を付け、皮をパリッとさせてやると、食の細い父もよく食べた。冬になって脂が乗ってきたら、今度は煮込みが最高だ。


 新藤は一希の料理をうまいともまずいとも言ったことはないが、日々の食べっぷりを見れば、口に合っていないという心配は要らないようだ。ただし、嫌いな物は特になさそうな一方で、何か気に入ったものがあるとそればかりを延々と食べ続けてしまう傾向があった。本人の分として与えたものは大抵残さず食べ切ってくれるが、冷蔵庫から勝手についばんでいく時には、根菜とエンドウ豆の煮物からレンコンだけがなくなったり、ナスと苦瓜にがうりの酢の物の苦瓜だけが著しく減るといった事態もしばしば起きる。


「よかったらお代わりお持ちしますから、いつでも……」


「ん」


 新藤はそれから数分の間食べ続け、不意に腰を浮かした。一希が慌てて立ち上がると、


「お前は食ってろ」


 ぴしゃりと言い、炊飯器に向かう。その手には、ご飯茶碗とともに空になった汁椀しるわん。新藤が白米をよそっているすきに一希はそっと汁椀を取り、味噌汁をついでやった。


「はい、どうぞ」


「おお」


 気分はすっかり女房役だ。同じ食卓に着いていないことを除けば……。


 座敷に向かう新藤の背中を見つめながら思う。新藤はどう思っているのだろう。一希に給仕までさせることはもともと予定になかったわけだが、嫁でも恋人でもない小娘に思いがけぬ次元で世話を焼かれることになり、それなりの気恥ずかしさを感じているのか、いないのか……。


「冴島」


「はいっ」


「明日の午後は空けとけ」


「えっ? あ、はい。明日の午後……」


 何らかの説明が続くのかと思いきや、会話はそれで終わりだったらしい。新藤は唐揚げの続きにかぶりついていた。

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