雪
時雨逅太郎
雪
雪の巡りが美しい宵闇。電灯が照らす儚い命たちを僕はぼんやりと眺めていた。この世界の命はすべからくこの様だと知ったのは十三の時であった。あの時は人を悼む心なんてろくに無く、慈愛の心など今現在も育ってなんかいなかった。
僕はカーテンを閉め、つい先ほど絶命した君の頬に触れた。慈愛の心が育っていないのも確かだが、自分の為だけに死んだ彼女を全く好けないのも確かであった。人間の心は悲しいほど変わらないということを噛み締めつつ、僕は彼女が飲んでいた珈琲を飲み下した。
「やっぱり私のこと好きじゃないの?」
セピア色に霞む君が微笑みながら言った。ああ、そうだよ。やっぱり駄目みたいだ。そう答えると彼女は目を伏せた。
彼女と僕の関係は、生易しい結び目ではない。十の数、固結びをした歪な関係ではあったが、真っ直ぐであっただろう。生真面目に同じやり方でほどけないように何度も結ばれた絆であったのだ。
彼女に出会ったのは十三の頃、僕がまだ中学生であった頃だ。彼女は僕の家の隣に越してきて、顔見知りになった。彼女が僕の家に挨拶に来たのも、丁度このような雪の日であった。彼女は頭に薄く積もった雪を振り落としながら、純真な笑みを向けた。水晶のように透き通った危なげな笑みであった。
僕は彼女の事を一目見て、瞬間、愛したいと思った。これが直感であるか狂気であるかはいずれ分かってしまったことなのであるが、僕は彼女を家に上げて幾つか話をした。彼女は冷えきって紅潮した頬を緩めながら、僕の話を聞いていた。そして、眉を上げて、目を細め、そして時には大袈裟に動きつつ、自らの事を話していた。彼女が、知らぬ地に降り立って不安がっていただろうということは容易に分かったが、それ以上に彼女は人懐っこく、僕には眩しい善の光を放っていたのだ。それが彼女を愛したいと思った二つ目の理由であった。
「じゃあまたね!」
そう言って彼女は雪の中、傘を差さずにパタパタとかけていった。はらはらと舞う結晶が彼女の光を反射しているようで、雪原の日の出を見ているかのような気分で、僕はくしゃみをするまでずっとその姿を見送っていた。
彼女と契りを交わしたのは十五の頃であった。彼女の頬に触れ、彼女と唇を重ねた。何度も確かめるように彼女を抱き、その度に彼女を汚してしまう気配に怯えた。僕はそれを拭うためだけに彼女の身体に触れたが、慈愛の心などの善を持たない僕がひどく矮小で醜く、あの水晶のような笑顔を壊してしまうだろうと、確信してしまった。
いずれ、彼女に触れなくなると、彼女は悲しそうに聞いた。
「もしかして私のこと好きじゃないの?」
僕はその言葉にはっとした。彼女の言葉は、弓の名手の放つ矢のように、寸分違わず僕を貫いた。僕は確かに彼女を愛したかったが、実際には愛せていなかったのだ。うん、どうも、駄目みたいなんだ。君のことが嫌いと言う訳じゃないけども。そう答えると、彼女の悲壮はより一層暗いものへと変わっていった。
「そっか。どうしたら好きになってもらえるかな」
彼女は、目を潤ませながらも、強い瞳で僕に聞いた。僕は驚いた。その瞳にはダイヤモンドのような決意が詰まっていて、永遠を感じさせたのだ。僕は、またあの雪の日のように彼女を見つめてしまった。愛したいと、思った。
どうしようか、分からないんだ。僕がそう答えると、彼女は一度目を伏せた。
「じゃあ、私、頑張るね」
うん、僕も頑張るよ。僕は彼女の中に感じる宝石の気配を噛み締めながら、答えた。
彼女が死んだのは二十二のこの夜であった。僕の家に来た彼女はあの日のように頭の雪を振り落とし、しかし、あの時よりも柔軟な笑みを浮かべた。
「なんだか最初にあったときみたい」
僕もそう思っていたよ。そう答えると彼女は嬉しそうに目を細めた。僕は彼女の好きなブレンドの珈琲を淹れて絨毯の上に座る彼女に出した。彼女は嬉しそうに黒い液体を啜った。僕が彼女の対面に座ると、彼女はこんなことを聞いた。
「やっぱり私のこと好きじゃないの?」
彼女が微笑みながら言った。あ、そうだよ。やっぱり駄目みたいだ。そう答えると彼女は目を伏せた。
「じゃあ、この珈琲はそういうことだよね」
僕は頷いた。大丈夫、苦しくないはずだから。そう伝えると、彼女はくすりと笑った。
「飲んだことないくせに」
ああ、その通りだね。僕が彼女の隣に座ると、彼女は僕の肩に頭を預けた。何も感じないのは今までと同じだったが、そんな日も今日で終わるだろうと思えば、辛くはなかった。
「ねえ、向こうで好きにならなかったら、どうしよっか」
今まで通りだよ。僕は笑った。今まで通り、やっていけばいいんだ。付き合ってくれるよね。
「うん、いいよ。ずっと付き合ってあげる」
彼女の語尾が、ふわりと宙に浮かんだ。気だるい眠気が彼女に襲ったようで、僕も彼女も、黙りこくってその時を待った。
珈琲は完全に冷めていた。彼女の身体をゆっくり横に倒した。冷たくなっている感触に多少驚きはすれど、それは雪に触れた幼子の驚き程度で、僕は最後に雪を見ておこうとカーテンを開けた。
雪の巡りが美しい宵闇。電灯が照らす儚い命たちを僕はぼんやりと眺めていた。この世界の命はすべからくこの様だと知ったのは十三の時であった。あの時は人を悼む心なんてろくに無く、慈愛の心など今現在も育ってなんかいなかった。
僕はカーテンを閉め、つい先ほど絶命した君の頬に触れた。慈愛の心が育っていないのも確かだが、自分の為だけに死んだ彼女を全く好けないのも確かであった。人間の心は悲しいほど変わらないということを噛み締めつつ、僕は彼女が飲んでいた珈琲を飲み下した。そして彼女の傍に身体を横たえた。
「やっぱり私のこと好きじゃないの?」
セピア色に霞む君が微笑みながら言った。ああ、そうだよ。でも次に会った時は君を愛せる気がする。確信があるんだ。彼女の躯に話しかけ、新雪のように柔らかな手を握った。
雪 時雨逅太郎 @sigurejikusi
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