誰が為のフェアリーテイル

夏祈

誰が為のフェアリーテイル

 森の奥、窓のない小さな家に、私は住んでいた。共に住むのは、流れる金糸の髪を持った、一人の少女。彼女は、名をウィスタリアと言った。──尤も、それは彼女が名乗ったものではないのだけれど。長い金色の睫毛が縁取る瞳は、夕焼けの頃のような紫色。まるで夢を見るようにここではない何処かを見つめるその目は、私に焦点が合うことは無い。

 彼女は、世界を摂取することで生きている。誰かが作った世界、誰かの空想の世界。それらがまるできらきら夢の詰まった金平糖であるかのように、その瞳で見つめ、世界を渡る。彼女にとって、私のいるこの世界は、他の世界を渡る際に必ず通る中継地点でしかないのだろう。しかし、夜中にふっと目を覚ましたような、夢の続きをまだ見ているような曖昧な意識の彼女と、交わす言葉はまた楽しいものである。

 彼女の摂取する世界は、主に私が作るものだ。週に一度ほど、決して近くはない街へ赴き、一人の少年と ──忘れたら怒られるのだったな── 一人のAIの少女の二人と出会う。彼らに私の中に眠る物語を具現化して貰い、それをウィスタリアへ渡す。そんなルーティンを、私はもう長いこと続けている。



 風が冷たくなり始めた夏の終わり。大ぶりに切った野菜を鍋に入れ、コンソメと一緒に煮込んでいれば、微かな吐息と共に彼女の瞼が開く。くるりと上を向く長い睫毛の奥に、覗くヴァイオレットがふわりと私の方を見た──気がした。

「おはようウィスタリア。スープは飲む?」

 私の言葉にこくりと頷く、その仕草すら愛らしい。それに合わせて揺れる金色の髪が、真っ白なシーツの上ではらりと海を作る。震える左手で握ったおたまで、スープをカップへ注いでいく。琥珀色の煌めく液体で満たしたカップは暖かな湯気を携え、良い匂いがした。我ながら上出来だろう。彼女にカップとスプーンを手渡し、私は自分の分のスープに口を付ける。野菜は甘く、味も染みて良い出来だ。その目を閉じながら味わう彼女を見やるが、彼女にはそもそも食事という概念は必要が無い。彼女には、誰かの作った世界が在れば、それで良いのだから。けれど、こうして起きたタイミングで食事を振舞うのは、彼女が摂取した知識を、記憶を、概念だけで終わらせて欲しくは無いから。私の手で彼女に与えられるものは決して多くは無いけれど、与えられるものがあるのならその全てをあげたいと思うから。それでも、今ここで彼女に味の感想を求めたとて、美味しい、ともわからないのだろう。


「……今日の世界は、悲しい世界だったわ」

 カップを空にした、彼女がそっと口を開く。

「ねぇ、あなたは、夜が明けないと、いや?」

 彼女は、摂取した世界について、私とよく話をしてくれるようになった。最初の頃こそ、ただ物語を得るだけの機械のようだった彼女が、私と言葉を交わし、その世界について理解を深めようとするそれは、いい傾向に他ならない。今日も話しかけてくれたことに喜びを覚え、私はダイニングテーブルの、一番ベッドに近い椅子に腰かけて彼女を見た。

「そうだね。私には、昼や夜があるのが当たり前だったから──無いと、寂しいものがあるよ」

 私がそう返せば、彼女はまるで聖母の如き柔らかな笑みを浮かべる。

「ねぇ、ここにもあるのかしら。昼や夜は」

 刹那、言葉に詰まった私を見て、彼女はくすくす笑った。ごめんなさいね、と囁くように言った彼女は、変わらず美しくて、少しだけ、ずるい。

「困らせたかったわけじゃないの。本当よ」

 彼女のその瞳に、私がいるこの世界がどれほど映っているのか、知らない。もしかしたら何も見えていないのかもしれないし、私とは違う世界が見えているのかもしれない。見えていたとして、窓一つないこの部屋をどう思うだろう。唯一の扉から出ることも許されない己を、どう思うのか。その答えが怖いから、私はそれを彼女に問わない。


 次の世界を与えれば、そっと微笑み、本を胸に抱いて、彼女は目を閉じた。最近は四千字も無い短編ばかりを与えているから、彼女の目覚める間隔は三日毎くらい。その間に私は街に行き、あの少年たちに出会い、また物語を生成してもらうのだ。私はもう、自力で世界を作り上げる力も無いから。いつもの待ち合わせ場所である喫茶店のボックス席で、一杯のコーヒーと共に待てば、慌ただしく目的の人物は店に飛び込んで来る。そして私の姿を見つけ、ぱぁっと表情を輝かせながら、こちらへと歩いた。

「こんにちは、遅くなってごめんなさい!」

 少年は私の向かいに座り、オレンジジュースを一つ店員に頼む。煌めく空色の瞳は、確かに私を射る。今日も、と彼に頼み、私は、私の中に在る物語を、彼の力で具現化してもらうのだ。どさり、どさりとテーブルの上に沢山の本が積み上がって行き、今日も大量ですね、と彼は言う。私は一番上の一冊を手に取り、ぱらぱらと捲りながら、出来を確かめた。間違いなく、さっきまで私の中にしか存在しなかった物語だ。それがたった一瞬で、こうして手に取れる媒体として現れる。彼の能力に感心すると同時に、私にはそれが空虚にも思えた。上から冊数を数えていく過程で、思っていたよりも一冊多いことに気付く。顔をあげて、彼を見れば、澄んだ青色の瞳を細め、にっこりと笑った。

彼に礼と、少しの紙幣を渡し、二人分の会計を済ませ、店を出た。快晴の空は真っ白な光を降らせ、私を容赦なく刺してくる。帰路へと足を向け、決して短くは無いその道を歩いた。

 歩みを進めれば進めるほどに、空は暗く、空気は冷たくなっていく。それは天気が悪くなったのではなく、世界が、無に侵されていくような暗さだ。ウィスタリアと暮らすあの家は、無の中に在る。

 ──過去。私はしがない物書きだった。いくつもの世界を描き、それで少しばかりの金銭を受け取り、裕福とは言えない生活をしていた。それでも、それを不幸とは思わなかった。描く世界が在る限り、それを見る誰かがいる限り、私は永遠に幸福だった。そうすることでしか、己が生きてはいけぬことも知っていた。幸せだったのだ。それはもう、過去形なのだ。

 私は半身を失った。それは比喩的な表現に過ぎないが、人の身体を肉体と精神に二分すれば、半身と言って過言では無いから。そして私にはペンを握るための気力も、戻っては来ない。私は、ただ生きているという事実だけを背負った、ただの肉塊に成り下がっていた。

 死のう、と思った。だから、はるか遠いこの国に来て、どこかの森で遭難でもしようと考えた。そんな街の中で、出会ったのがあの少年だ。彼は私の中の、まだ描き切っていない世界を、物語を、あっさりとこの手に実物として握らせてしまった。最後に見た、希望にも似た光だった。それだけを抱いて死ねるのなら、本望だ。彼に別れを告げ、森に入り、私は一つの家を見つけた。入ったのは、好奇心が半分。あとの半分は、呼ばれた気がした、なんて、非科学的な理由。家の中には外から見えたような窓の類は一切無く、壁一面に張り巡らされた大量の本棚と、簡素なキッチン、そしてベッドが一つ。そこに横たわる少女は寝顔すら酷く美しく、まるでこの世のものでは無いかのようだった。近づき、覗き込んだ瞬間、パッと目を開いた彼女は、私が胸に抱く本へと手を伸ばした。お腹が空いていたの、と零し、本を抱いた彼女は再び目を閉じた。……弱った。これを返してもらえない限り、私は死ぬに死ねない。いつか彼女が目覚めるまで待とうと決め、壁の本棚に目をやった瞬間、私は一つの真実に、否応なしに気付いてしまった。


* *


 三日経ち、目覚めた彼女は相変わらず、夢を見るような潤んだ瞳で。私も、青い空が見てみたい、と囁いた。

「──……え、」

 思わず零れた私の戸惑いの言葉に、彼女は微笑む。彼女の言葉が本心ならば、彼女にとって摂取する世界は額縁の外から眺める夢に過ぎないのだろう。永遠にそこに入ることは不可能で、偽物だけを与えられる哀れなお人形。

「ねぇ、この部屋の外には、何が在るの?」

 これまで、一度も聞いたことのない問い。知らぬものを求める彼女の瞳は、眩しい。でもあなたは、それを教えてはくれないでしょう、と伺うように、こちらを向く。初めて交わった視線は、酷く甘美で、苦しい程に刺さる。

「……ウィスタリア」

 名を呼ぶ。私が、彼女に与えた名前。麗しい、故郷の花。

「本当を話そう」

 君が、それを望むなら。


 三日前、少年と出会い、生成して貰った中で、一冊多かった見覚えの無い本は、酷く分厚かった。こんなに長い物語を夢想していた覚えは無い。何が紛れていたのかと少年を見れば、彼はにっこりと、真夏の向日葵のような笑顔で、ただ一言。

「読めばわかるさ!」

 捲った一ページ目、飛び込む『ウィスタリア』の文字列。これは私と、私と決して離れないものウィスタリアの物語だ。私がずっと、心の奥底で綴ってきた、彼女との日々だ。


 この部屋の外には、青い空なんて無い。煌めく星も、光を降らす太陽も、朝を告げる鳥も、何も。ここに在るのは、果てしない無だけ。それでもその無の中で、無で在り続けないために、彼女は世界を渡ってきた。私は、彼女に世界を与えてきた。

「──……君は、私自身だよ。無垢に、貪欲に全てを得る君は、私の光だ」

 分厚い本を渡す。これがきっと、最後の一冊。私と君を綴った、嘘のような本当で描いたフェアリーテイル。あの少年がいなければ、私も気付くことは無かった世界。次にその目が開く時には、私に彼女は見えないし、彼女も私を認識することは無い。手を取って、その指先に軽く口づけて、ベッドに倒れ込む彼女を見送った。本を抱き、瞼を閉じて、澄んだヴァイオレットを隠していくその姿に、美しい以外の言葉は無い。どうか幸せに──いや、違う。私が幸せに、するのだ。

 ウィスタリア。きっともう二度は呼ばぬその名を口にして、右手をペンへ、左手を原稿用紙へと伸ばした。

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