冬の夜の客

大野葉子

冬の夜の客

 寄せては返す波の音、風が木の葉を揺らす音。

 暖炉で薪が爆ぜる音、柱時計の働く音。

 コンロの上のやかんが鳴る音、さらにその上の換気扇が動く音。

 常と変わらぬ冬の夜の音に混じり、コツコツという硬い音が聞こえてくる。

 リュエーリが女一人で住む家に至る石畳の坂を上ってくる誰かの足音だが、それが誰のものか彼女にはわからない。この道に不慣れな人間の足音だとは思うのだが。とりあえずゆっくり慎重に歩いている様子なのは間違いない。

 コンロの火を止めて湯をポットに移し、さらにポットからドリッパーにセットした焦げ茶色の粉の上へと落とす頃になってようやく、足音が玄関の前で止まった。

 が、なかなか呼び鈴が鳴らない。

 家の前にいる気配はあるのに次のアクションを取る気配がないまま時間だけが過ぎていく。

 コーヒーはドリップを完了し、すでにサーバーからカップへと注がれてもう飲める状態だが、この状況では飲む気になれず、リュエーリは玄関扉の向こうを窺った。

 夜の訪問者は他人の家の前で一体何をしているのか。堂々と家に近づいてきたので犯罪者の類ではないと予測していたが、あまり長いこと沈黙されていると怖くなってくる。気配を隠す素振りがないのもまた不気味だ。

 こちらから声をかけるのは相手が不審者だった場合を考えるとリスクが高いし、どうしたものかと考えていると、ようやく呼び鈴が鳴った。

「ごめんくださぁい。」

 少年だろうか、子供のような高い声だ。

 声音からは悪意のようなものは感じないが、長時間家の前にじーっと佇んでいた相手のこと、何かよからぬことを考えている可能性は否定できない。なので、ドアは開けずに応対する。

「はい。」

「リュエーリさんですか?」

「どちら様です?」

「本の配達人です!リュエーリさんに本を届けに来ました!」

 リュエーリは眉をひそめた。

「本…ですか?どなたからです?」

「あー、えっと、匿名の方からでして、ぼくの口からは、ちょっと。」

 歯切れの悪い物言いにリュエーリは眉間の皺を深くした。

「それでは受け取ることはできません。私へ本を送るような人には心当たりがありませんので。」

 なるべく感情を含まない声でそのように応対するとドア越しの声はあからさまに慌てだす。

「えっ、えっ!?いや、それは困ります!受け取っていただかないと!」

「そう言われても受け取れないものは受け取れません。お引き取り願えますか。」

「だめですだめです!これはリュエーリさんに必要なものなんですから!」

「私に本が必要なはずありません。」

「えっ…えー?」

 ドアの向こうの人物はしばし黙った。代わりにパラパラと何か紙をめくる音がする。

「えっ、だって、ハルツゲ村のリュエーリさんですよね?おっかしいなぁ…間違ってないと思うんだけど…。」

 困惑しきったその声にリュエーリもまた困惑した。どうやら宛名は自分で間違いないらしい。なぜならこの村にリュエーリという名の人間は自分しかいないからだ。

「リュエーリさん、せめてっ…!」

 くしゅん!と訪問者のくしゃみが挟まって、

「げ、ん物を見てっ、確認していただけませんかぁ?絶対にリュエーリさんに必要な本のはずなんですよぉ。」

 困った調子の声の要求が続いた。

 その弱った様子に、リュエーリの中に迷いが生まれる。

 訪問者がリュエーリを訪ねてやって来たのはどうやら間違いないらしい。そして長時間冬の寒さにさらされていたために凍えてしまっているらしいことも。問題は、訪問者の用件にまったく心当たりがないことと、この訪問者がまだかなり若そうだとはいえ男性であることだ。

 若い異性の興味を惹くような年頃ではないとはいえ未婚の女性の一人住まいで夜分に見知らぬ男性を家に上げるのは憚られる。ましてやここはとてもとても小さな村で村人は話題に飢えている。万一村人に見咎められれば、このことはあっという間に村中に知れ渡り、どんな扱いをされるか知れたものではない。

 どうしたものかと考えている間にまたドアの向こうからくしゃみが聞こえた。

 結局、リュエーリはドアを開けてこの夜の訪問者を家に上げた。体面を気にするよりも道義的責任感が勝った結果だ。

 このくしゃみが計算ならたいしたものだと思いながら。


 ダイニングに通し、イスを勧めてまだ温かいコーヒーを出すと、少年は嬉しそうに口をつけた。

「あったかーい…生き返ります、ありがとう、リュエーリさん!」

 ごくごくと喉を鳴らして無邪気に礼を述べる少年はリュエーリの予想よりさらに若いのかもしれない。コーヒーにもざーっと音を立てて砂糖を投入していた。ミルクも勧めたがそれを断ったのはコーヒーが冷めるのを嫌ったのだろう。

「改めまして、ぼくはカタリィ・ノヴェルと言いまして、本の配達人です。どうぞ、カタリと呼んでください。」

 人心地ついて挨拶し直したカタリは悪事の類とは無縁そうな、素直そうな気配をまとっていた。とりあえずただちに生命や財産の危機に瀕することはなさそうでリュエーリもほっと胸をなでおろす。

 だが、それはそれとして、

「先ほどから私に本を届けに来たと言うけれど、それは本当に私に宛てたもの?人違いではないかしら?」

 この点はきっちり糺さねばならない。

 だがカタリはきっぱりとした調子で答える。

「ええ、ハルツゲ村のリュエーリさん宛ての本を持ってきました。間違いありません。ぼく、方向オンチなんで違う村に行っちゃったりってことはよくあるんですけど、宛先そのものを間違ったことは今のところありませんし!」

「でもねえ…。」

 リュエーリは眉を下げた。

「私、目がほとんど見えないのよ。だから本を自分で読むことができないの。」

 一瞬の間の後、カタリが叫んだ。

「ええええええ!?うそお!!!」

「嘘だったら良かったわよね、お互いに。でも本当なのよ。」

「そんな…。いつ、いつから目が見えないんですか?最近とか?」

「もう二十年以上前からよ。」

「そんなあ…。」

 肩を落としているらしいカタリに申し訳ない気持ちになるが、事実なので仕方がない。

 事故で視力のほとんどを失ったのは十五のとき。そのときからリュエーリの視界はぼんやりと明るさがわかる程度の閉ざされたものに変わってしまった。

 そしてそれ以来、自ら本を手に取ることなどなくなった。

「だからね、私のことを知っている人が私に本を送ってくることなんてないと思うのよ。」

「でも…。」

 カタリは少し口ごもってから心配そうに尋ねてきた。

「本は読まないにしても、役所に出す書類だとか、どうしても文字を読まなきゃいけないときはあるでしょ?そういうときは?」

「ご近所さんに助けてもらうのよ。けれど、さすがに本を読んでとは頼めないわ。」

「なるほど…。」

 本を読めないことを残念には思っているのだけれど、という台詞は喉の奥に飲み込んだ。そんなことを言ってもこの真面目そうな少年を困らせるだけだろうと思ったからだ。

 カタリはコーヒーの入ったカップを握りしめて考え込んでいるようだった。

 考えてもらっても視界に光が戻るわけでなし、とにかく慰めてやって、困っているなら泊めてやってもいい、なんとか寒さをしのがせてやって、などとリュエーリが考えていると、意を決したようにカタリが口を開いた。

「事情はわかりました、リュエーリさん。でも、ぼくに本を託した人の気持ちもあります。だからせめて手に取ってみてください。どうかそれだけでもお願いします。」

 そう言うとカタリは立ち上がり、リュエーリの前に跪くとその手に紙袋を握らせた。

 ずしりと重いそれは中に本が入っているのだろう。

「でも…。」

「受取人は間違いなくリュエーリさんなんです。開けてください。」

 なおも断ろうとするリュエーリにカタリは力強くそう言った。

 その有無を言わさぬ口調に、リュエーリは仕方なしに紙袋を開ける。

 中に入っていたのは布張りの本だった。

 ああ、と、我知らずリュエーリは感嘆する。

 やむを得ない事情があるにしても、自力で読むことができないからと書物を遠ざけ続けてきた二十余年。久方ぶりに味わう吸い付くような手触りを、どっしりとした重みを、快く思う自分がいる。

 そっと撫でて形を確かめてみると、表紙がレリーフになっていることに気づく。

「あっ…。」

 リュエーリは息を呑んだ。

 指でたどればタイトルがわかる。レリーフはアルファベットを浮き彫りにしたものだったのだ。

「…『わすれなぐさをおぼえていますか』…?」

 思わず読み上げた声が震えていたことにリュエーリは気づかなかった。逸る気持ちに震える指で期待を込めて表紙をめくり、最初のページをなぞっていたところだったから。

 リュエーリの期待は裏切られなかった。

 その本は本文もアルファベットの浮き彫りで綴られていたのだ。


 カタリがその場にいたことも忘れてひたすら文字をたどっていたリュエーリだったが、床のきしむ音にハッと我に返った。

「待って!」

 何も言わずに去って行こうとしたカタリを慌てて呼び止める。

「よく確かめもせず追い返そうとしてしまってごめんなさい。とても素敵な本だわ。それに多分、私のことをよく知っている人が私に宛ててくれたものね。本当にありがとう。」

 非礼を詫び、丁寧に礼を言うとカタリの声が嬉しそうに弾んだ。

「お礼を言われるほどのことではないですよ!ぼくの仕事ですから!それに、この本の価値は読んでもらえればわかると思ってましたから!」

 得意そうなカタリにリュエーリはふと尋ねる。

「ねえ、そういえば、どうしてなかなか呼び鈴を鳴らさなかったの?変な人が来たのかとびくびくしていたのよ。」

 リュエーリの口調は軽く咎めるようだったが、カタリの返答はむしろ誇らしげだった。

「ぼくがお届けするのは誰かの大切な本だから。だから、何度も何度も宛先を確かめて、間違いないと確信できるまで呼び鈴は鳴らさない主義なんです。」

 胸を張る少年の晴れやかな笑顔を想像し、リュエーリの胸は再び熱くなるのだった。

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冬の夜の客 大野葉子 @parrbow

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