薔薇鉄冠の儀 Ⅴ
鬱蒼と薔薇の茂る庭園は、むせかえるほどの
(エグランタインは地下の連絡通路に向かったか。昨日仕込んだ罠で今展開できるのは――)
エリファレットが地下に到達するのも見届けず、エグランタインは広場から姿を消した。サイラスは脳内に庭園の地図を思い浮かべ、昨日あちこちに仕込んだ魔術を展開していく。
薔薇鉄冠の儀において、支援者は自身の相続人の後方サポートは可能でも、相手方の相続人を直接攻撃することはできない。間接的に通路を
視界で金属の反射光が煌めいた。
「――ナサニエル」
重い長剣が右腕を叩き潰そうとする気配に、サイラスは後方に飛び
右腕の袖を
「門の島から来たる者よ」
紋が黒く明滅すると、彼の足もとから泥の木偶が大量に出現した。広場の中央で悠然とたたずむナサニエルにむかって、泥の塊は収束したように見えた。しかし次の瞬間、木偶は音もなく弾き飛ばされて崩壊し、その乾いた泥は灰燼と帰した。
ナサニエルは長剣を携えたまま、小奇麗に整えた顎の髭を
「待ちなさい、サイラス。君とは――」
「待たない。先にお前を潰す」
(――やはり子供騙しでは駄目か)
ナサニエルの紋は、魔術の行使こそ不可能だが、魔術によって編まれた遺伝情報に対して強い耐性を発揮する。生体の強度にもよるが、召喚された生体と《門の島》の接続をいとも容易く切断することが可能だ。アエルフリク侯爵家の出身者がたびたび持つ紋は対魔術師戦に特化していることから珍重され、古くから優秀な軍人を輩出してきた家柄である。グエナヴィアが彼を近衛の筆頭として採用したのも道理だ。
――しかし、彼を脅威と感じならば、それはその魔術師のレベルが低いからだ、とサイラスは考える。
「回帰せよ、塵あくた――」
勢いよく踏み込んできたナサニエルが、剣を振るった。さらに後方に飛び退こうとして、薔薇の木立に
かまわず詠唱を終えようとしたところで、男が表情を消した。
「その薔薇はグエナヴィアの――」
不意打ちの発言に、一瞬、理解が及ばず思考が停止した。
「冗談だ」
顔に風圧を感じる。寸でのところで頭の上を通り過ぎた剣が、薔薇の垣根を突き破った。体勢を崩し、地面に膝をついたサイラスの視界に映ったのは、逆光のなかにたたずむナサニエルの姿だ。右手首に突きつけられた長剣の先端に、身動ぎもできず、黙ってその青い目を睨み返す。
「もう終わりかい? 門の島で幽閉されているうちに、勘が鈍ったとようだね」
重たい
「……何が目的だ、ナサニエル」
「目的? 言わずともわかるだろう、サイラス。これまでどおり、仲良くやろうじゃないか。冷静になってみたまえ、あの娘にグエナヴィア様の代わりはできん。君は今、先代陛下が亡くなって、ひどく動揺しているだけだ。私も彼女を失ったばかりの頃はそうだった」
「俺は冷静だ」
「冷静じゃない、サイラス。今の君は明らかに心の安定を欠いている。休息が必要だ。時間が経てば彼女のいない現実にも慣れるはずだよ。君ほどの男だ、結婚したいという女はいくらでも見つかる。何なら世話をしてやってもいい。家庭を持って、田舎にでも暮らせば、いつか――」
「お前にはわかるまい、ナサニエル。侯爵家の恵まれた環境で育ったお前と俺とでは絶対的に違う。……俺は
わたくしを死の
それがお前の生まれた意味なのだから。
脳内に主君の声が
遺されたのは、完璧な胚と
自分ただひとりを必要とする渇望の熱が、サイラスの全身を沸騰させる。
「お前とは違う。人望があり、地位があり、愛すべき領地と民を持っているお前とはな! ゴミ屑は誰かに価値を見出さなければ、生きる意味など存在しないも同然だ。俺は俺のために命令する女がほしい……グエナヴィア様がもう居なくとも!」
ナサニエルが形のよい眉を
「……何だ、これは」
「サイラス?」
「この魔術痕跡は――……ジェイシンス? それにしては、やけに禍々しい……」
「ジェイシンス? なぜ第三者がここに?」
ナサニエルの言葉に、
「俺が知りたい。何の目的があって……。いや……、おい、お前、ジェイシンスの最近の研究について何か知ってるか?」
「唐突になんだ。私が魔術について詳しい訳がないだろう」
魔術の腕は〝からきし〟なんだぞ、と拗ねたように唇を尖らせたナサニエルの背後に、人影が現れた。純白の
「聖下?」
バーンハードだ。
壮年の男は葡萄十字の鎖を握りしめ、ゆるりと
「ヘウルウェン伯爵家の息子ジェイシンスのことかね」
沈黙を肯定と受け取り、彼は静かに目を伏せた。「まさか、このような生命の冒涜者たちが集う儀式に参加することになるとは……」そうため息混じりに呟くと顔を上げ、言葉を紡いだ。
「彼は学園に所属しながら、何度か使徒教会が主催する競争的資金を申請した。私も目を通したことがあるが、ことごとく却下した覚えがある。なぜならば、彼の研究内容は……」
◇ ◇ ◇
エリファレット、と誰かが名前を呼んだ。
朦朧とする意識のなか、ゆっくりと瞼を押し上げる。彼女の視界に映り込んだのは、懐かしい、燃えるような赤毛だった。
「先生……?」
冷たい石棺の上に横たわるエリファレットを、ジェイシンスが覗きこんでいた。
視界は
腕を伸ばし、エリファレットは目の前の頬に触れた。
「先生、ごめんなさい……」
彼女の唇からこぼれ出たのは、いまにも消え入りそうな謝罪の言葉だった。
「エリファレット? どうしたの、急に?」
「私が馬車に轢かれたせいで、グエナヴィア様の最期に間に合わなくて……」
ジェイシンスは一瞬言葉を失い、それまで浮かべていた笑みをかき消した。
何かを噛みしめるように瞼を伏せると、ううん、と小さく
「いいんだ。もういいんだよ、エリファレット……」
涙を流す少女の頬に触れた指は、
「せんせい?」
「ごめんね、ちょっとドジっちゃってね……。すぐに戻ってくるから、君はここにいて。大丈夫、何も心配することはないよ」
やわらかい前髪をかき上げ、額にキスを落とす。そして笑みを深めると、「もうすこし、おやすみ」と優しい声で囁く。それを最後に、エリファレットの意識は再度闇のなかへと落ちていった。
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