薔薇鉄冠の儀 Ⅳ

 


 えず、水音が響いている。

(――こんなに湿っぽい場所だったか?)

 光源のない暗い通路を走りながら、エグランタインはふと違和感を覚えた。地下廟の床はぬめり気を帯び、いたるところに藤壺がこびりついている。三年前、『母親』である前女王の埋葬に立ち会ったときや、昨日訪れた際とは明らかに様相が異なっている。

 ここは曠野ヒースの中心であり、薔薇の生育のための地下水路は引いても、土地を潤すには十分でない量だ。それに――

(生臭え磯の匂い……。どこからか海水が流れてきてんのか?)

 すん、と鼻を鳴らし、エグランタインは形のよい眉を寄せた。

 胸騒ぎを覚えたが、ここで地上に引き返す選択肢はない。念願の薔薇鉄冠を前にはやる気をなだめながら、歩調を緩める。

 右腕の袖をまくり、足音を消した。

 歴代女王の廟は静寂に包まれている。石棺に収められた女たちは、いずれも三十五歳に満たないまま遺伝病で命を奪われた者たちだ。激痛とともに四肢が溶け、やがては正気さえも失って死んでゆく病は、言い換えれば血の呪いでもある。女王たちの膨大な苦痛が連鎖した末に、エグランタインの命はかろうじて繋がれている。

 ――唯一、遺伝病を克服した胚として。

 致死性の遺伝病を持たず生まれたことで、誰もがエグランタインの出生を祝福した。必然的に、彼女の人生は華々しいものになるはずだった。

 サイラスの想像は、ある意味で的を得ていたのだ。――しかし。

 エグランタインは息を押し殺すと、ぴったりと壁に背を寄せた。グエナヴィアの墓は、もう数歩先にまで迫っている。

(――グエナヴィア)

 エグランタインの記憶のなかで、グエナヴィアは精彩を欠いた存在だった。

 寝たきりで、自分ひとりでは満足に食事さえとれなければ、ろくに喋ることもできない人形。やせ衰えてかつての美しさは失われ、強靭だった精神や知性は見る影もない。国の頂点に戴かれるにはあまりに無様で、みじめな女だった。

 しかし――彼女が死してなお――エグランタインは母を越えられなかった。

 エグランタインに接する者は、誰もがその容姿を、美しい声を、聡明さと洗練された立ちふるまいを褒め称えた。そのことに満足しているうちはよかった。しかし実際、彼らは彼女のなかに母の面影を見出しているだけだった。

 その証拠に、誰もがエグランタインを前に、母の末路を嘆き悲しんでみせた。

 健やかに育ちゆく若木であり、未来を約束されたはずの自分が、どう足掻いても母の影から這い出ることができないことを、思い知らされた。

 そのことに気付いてからは、グエナヴィアと重ねられないように、長かった髪を切り、毒薬で声を枯らし、男のような振舞いを好んだ。

 自分の人生を歩むため、多くものを切り捨て、母の影を払拭しようとした。

 ――薔薇鉄冠を得て、女王になる。

 そうすれば、エグランタインという存在ははじめて完成するのだ。

 女王グエナヴィアではない、女王エグランタインが。

(……魔術痕跡?)

 見知らぬ魔術痕跡の気配が肌にまとわりつく。少なくとも、母の複製エリファレットや、既知の人物のものではない。

 エグランタインは小声で詠唱を始めた。

 間を置かず、身を乗り出す。廟の扉は既に開け放たれている。暴風とともにエグランタインの足もとに出現したのは薔薇の荊棘けいきょくだ。

 細く強靭な樹梢が無数に枝分かれしながら、小さな廟を埋め尽くす――その場にいる者を串刺しにして。その想定が外れたのは、予期せぬ力によって、彼女が室内に引きずりこまれたからだった。

(――たこの足?)

 前女王の遺体を納めた石棺せきひつの上に、巨大な蛸が這いずっている。そのぬるつく足の一本が、今にも骨を折りかねない握力によってエグランタインの右腕を圧搾し、紋から放たれる光を覆い隠したのだった。

「――

 この場にあまりにそぐわない存在に、状況判断に遅れを取った。そのことに気付く頃には、第三者の声が彼女の鼓膜を打っていた。

 燃えるような赤毛をした男だった――既知の人物ではない。左腕に気を失ったエリファレットを抱き、もう右腕を宙にかかげている。

「チッ……!」

 右腕の紋を封じられては、満足に魔術が扱えない。後退しようにもたこの足の力は尋常でなく、靴の踵が濡れた石床をいたずらにるだけ。ほとんど距離を取ることができない。

 咄嗟の判断で腰の短剣を抜き、目の前の足に突きたてるが、表皮の粘液にすべるばかりで、刃はなかなか蛸の肉を断ち切ることができなかった。

 詠唱が終わりを迎えるとともに、たこの表皮が硬質な鱗に覆われてゆく。さらに、数本の足が身動きを封じられた彼女にむかって飛びかかった。

「――っ、蛸が――」

「生体干渉魔術の応用編だよ。この十七年、ガーデニアで蓄積された研究成果さ。遺伝情報を編集し、改竄かいざんする。……生命倫理に反した行いだと、規約ガイドライン違反を通告されて、中央の研究機関からは締め出されてしまったけどね」

 鈍色に輝く鱗。短剣で弾き飛ばそうとするが、その隙を掻い潜った一本が、エグランタインの右肩を抉った。血飛沫が宙を舞い、苦痛に顔をしかめながらも、彼女はようやくその人物の正体を把握した。

「《ガーデニア》――そうか、てめえ、ヘウルウェン伯爵家の息子か……っ!」

 ――ナサニエルから話には聞かされていた。

 魔術の宗家であるヘウルウェン伯爵家、その息子ジェイシンス。十七年前、禁忌を犯したサイラスが門の島に流刑されると同時に、共同研究者であった彼も職を追われた。その後、彼は湖水地方に教育機関を建てたはずだ。

 前女王グエナヴィアが好んだ花は、薔薇だけではなかった。

その花の名前を冠した学園――ガーデニア。

「君はまるでグエナヴィア様に似ていないね、エグランタイン。残念だ」

 肩口から血が滴り、足もとに水溜まりを作る。エグランタインは左手の短剣を取り落とさないようきつく握りしめながら、真正面からその男を睨み据えた。

「ハハッ、嬉しいな……。これ以上ない称賛だなあ……」

「……そうかい」

 長い睫毛を伏せ、ジェイシンスは苦笑すると、腕に抱いた少女の髪を撫でた。

「可哀想だけど、君は女王になれない。なぜなら、たとえどんな手を使っても、私がこの子を女王にすると決めたから」

「グエナヴィアの代わりに?」

「――グエナヴィアとして」

 間髪入れず、ジェイシンスは答えた。

 虚を突かれ、エグランタインは真顔になった。胸のなかで、けるような熱が膨れた。痛みからだけでなく上半身が痙攣する。

 顔が引きつり、喉が音もなく震える。

 全身の血が乾上がるような乾燥と飢餓が、彼女のなかで荒れ狂った。

女王グエナヴィア信者か、お前……。凝りねえ連中だな……。とっくに死んでる女の幻影に、いつまで縋りつくつもりだよ……。気色わりいことこの上ないな、ほんとに…………」

 一度、深く項垂れ――顔を上げる。長い前髪の隙間からジェイシンスを睨みつけると、エグランタインは痛みさえも忘れ、激しくがなりたてた。

「グエナヴィア、グエナヴィア、グエナヴィア! グエナヴィア万歳ってな! うるせえことこの上ねえんだよ、このクソ野郎ども! 誰も現実を見ようとしねえ! どうして誰も、今生きている俺たちを尊重しようとしねえんだよ!」

 肩を捉えた蛸の足が傷口を貫く。その場に崩れおちたとき、彼女の足もとに膨大な数の文字スペルが浮かび上がった。

 頭上で翅音はおとが響き、大量の蜂が出現した。猛毒の蜂の『仕込み』だ――エグランタインはぐっと奥歯を噛みしめると、蛸の拘束が緩むやいなや、勢いよく後方に飛び去った。

(すこしくらいなら時間を稼げるか……!?)

 肩の傷を押さえ、浅い呼吸をくり返す。思考を巡らせようとした矢先、正面の廟から大量の海水が噴き出した。

 溺死した蜂の死体が、水とともに足もとに滞留するのを前に、絶望が彼女の胸を塗り潰した。

(――ヘウルウェン伯爵家の紋。門の島から、生命の水を呼び出せんのか……)

「……くそっ……。ナサニエル、なにしてやがる……」

 わざとらしく長靴ちょうかを鳴らしながら、ジェイシンスはゆっくりとした足取りで、身動きができないでいるエグランタインに歩み寄った。

 背後には、石棺に寝かされたエリファレットの姿が見える。

ジェイシンスは隠し持っていた短剣を懐から取り出した。鞘を地面に落とすと、無表情にエグランタインを見下ろす。

 ――翡翠の瞳に宿るのは、凍てついた光だった。

「さようなら、グエナヴィアの娘」

 エグランタインの視界で、金属の光が煌めく。その瞬間、彼女は床に手を押し当てた。大量の文字スペルが地面に浮かび、暴風とともに荊棘が彼の体を貫く――



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