薔薇鉄冠の儀 Ⅵ


 ジェイシンスとの邂逅は現実感に乏しく、目を覚ましたとき、エリファレットは何か都合のいい夢を視ていたのだと思った。

(……あれ……)

 瞼を打った水の滴に、エリファレットは生え揃った睫毛を上げる。周囲は薄暗く、どこからか生臭い磯の匂いが漂っている。状況を把握しようと視線を彷徨わせたところで、後頭部に強い痛みを感じた。

 視界が白くかすむ。目頭を押さえて耐えているうちに、頭痛は嘘のように消えてしまった。長い息を衝いて肩から力を抜くと、エリファレットは記憶を辿る。

(発作で失神してしまった? ここは……グエナヴィア様のお墓?)

 顔の横に落ちていた白い花びらをまむ。自分が硬い石棺の上に寝かされていることに気付くが、何故この状況に至ったのか判然としない。既にエグランタインはここに到達して、鍵を持ち去ってしまったのか。もうとうに薔薇鉄冠の儀式は終わってしまったのか――焦燥感を募らせた矢先、ふと、足に何かが触れた。

「……っ!?」

 見れば、片足に見慣れない物が巻きついていた。

 瞠目するエリファレットの視界に映り込んだのは、奇怪なたこ。その足の一本が、エリファレットを捕らえていた。

「な、なに……っ!?」

 ますます混乱し、宙を蹴ってたこの足を振り払おうとするが、逆にもう片足を掴まれ、強い力で引っ張られた。

 石棺の上を這いずって近づこうとする蛸のさらなる触手が、視界でゆらゆらと揺らめく。両腕を使って必死に後ずさろうと試みるものの、まるで効果はなく、革靴にしっかりと絡みついている。

 冷や汗が流れた。蛸もその気になれば人を殺せるのだろうか。革靴を越え、スカートの裾を割って入った触手の冷たい吸盤が、むき出しの膝に触れる。恐怖心が先立ち、エリファレットはただ悲鳴を上げるしかなかった。

「な、なんでこんな目に遭わないといけないんですかっ……!」

 魔術を使って撃退すればいいのでは――と気付いた瞬間、廟の扉が開いた。

「……サイラス!? た、助けてください……!」

「エリファレット!?」

 姿を現したサイラスが、視界に入った光景を前に瞠目どうもくする。とっさに駆け寄った彼がそのたこに触れようとすると、突然、濡れた表皮が硬い鱗に覆われた。鱗が手のひらに突き刺さり、彼は舌打ちした。

 蛸はエリファレットから素早く身を離すと、敵意をむき出しにして、後方に飛び退いたサイラスにむかって無数の触手を伸ばそうとする。その彼を押し退け、背後から姿を現したのはナサニエルだ。

 長剣がたこの頭に突き刺さり、見る影もなく灰燼に帰してゆく。

「これは……何だ? 蛸?」

「俺が触った瞬間に皮が鱗になった」

 灰となった蛸の残骸を前に、ナサニエルは眉をひそめた。「悪趣味だな」――そう呟いた彼の横を素通りして、サイラスがエリファレットのもとにやってくる。

 彼が差し出した手を借りて、エリファレットは地面に降り立った。

「すまない。怪我はないか」

 たこの吸い痕が付いた程度だ。エリファレットはうなずき、「でも、何がなんだか」という言葉とともに、サイラスとナサニエルを交互に見やった。

「なぜお二人が一緒に? ……何か起きたんですか?」

「異常事態だ。薔薇鉄冠の儀はこれから正式に中止が通知される」

「異常事態……?」

「第三者が乱入した」

 潮の気配に満ちた廟を見渡し、サイラスは石棺に落ちた灰を摘まんだ。「ジェイシンスの魔術痕跡だ」――そう淡々と続ける。

 彼の言葉に、エリファレットは不意に顔が強ばるのを感じた。

(――学園長先生)

 曖昧模糊としていた記憶が鮮明になる。グエナヴィアの墓で、薔薇を背に佇んでいたジェイシンス。彼を目の前にして、エリファレットは記憶を失ったのだ。

 ヴィネグレットの鎖を握りしめ、下唇を噛みしめる。あれは夢ではなかった。

「……先生が、何かしたんですか?」

 異常事態、とサイラスは言った。ジェイシンスは、ただの墓参りに来たわけではない。目的を持って、今日行われる儀式に介入しようとしたのだ。

 遺伝病により短命な女王は、基本的に統治権を貴族院に委任することが通例となっている。ゆえに女王は国民にとっての精神的な支柱であり、模範像に過ぎない。利権が絡むリスクも相対的に少ない――グエナヴィアが特殊だっただけで。だからこそ権力のために、彼がこの儀式に乱入したとは考えにくかった。

 もっと、個人的な理由だろう。その可能性に思い至った瞬間、エリファレットは全身から血の気が引くのがわかった。

「……ジェイシンスは俺が居なくなったあと、生体干渉魔術の研究を続けていた。先程のたこもその成果だろう。《門の島》から召喚した生体の遺伝情報を同時進行で編集する。それだけじゃない……」

 そこで言葉を切り、サイラスは無言でエリファレットを見すえる。目が合った瞬間、エリファレットは直感した。

 ――彼は〝知ってしまったのだ〟。

 所詮、彼もジェイシンスと同じ穴のむじなだろうとエリファレットは考えている。自分とグエナヴィアとの同一視が加速するはずだろうとも。

 奇妙なほど冷静な頭で考えたが――意外にも、サイラスは色よい反応を示さなかった。それどころか、視線をらされてしまう。

 嬉しくなかったのだろうか? 漠然と、そんなふうに感じた。

「……サイラス、行くぞ。ジェイシンスはおそらくエグランタインと接触した。楽観的に解釈するなら、今も交戦中だろう。鍵はここにはないな?」

「……ああ、ない」

「奴の目的はエグランタインの殺害だ。お前にとっては願ったりかなったりな状況だろうが……」

 サイラスはかぶりを振った。

「この状況が露見すればエリファレットも失格になりかねん。それに、俺の研究を悪用されたことが心底腹立たしい。ジェイシンスは越えてはならない線を越えてしまった。奴を潰して仕切り直す」

「はは、越えてはならない線? 君がそれを言うのかね。サイラス」

「エリファレットが生き残ったのは俺の意思じゃない。グエナヴィア様のお考えだ」

 険しい表情でナサニエルを睨んだサイラスが、エリファレットを一瞥し、「地上に戻っていろ」と言い放った。

 予期していた言葉に、エリファレットは俯いた。理性では、彼の言葉が正しいことを分かっていた。儀式が中止になるならば――自分が行ったところで、状況がより複雑になるだけだ。

(やっぱり、先生は……私を女王グエナヴィアにするために……)

 胃の腑がすっと冷え込んでいくのがわかった。爪が皮膚に食い込むほどに拳を握り、下唇をきつく噛む。長い睫毛を震わせ、エリファレットはゆっくりと唇を開いた。

「……私も、行きます。だって……先生のなかであの人をちゃんと死なせてあげなかったのは……私のせいだと、思うから」

「やめたほうがいい」

「嫌です。私の言うことを聞きなさい、サイラス!」

 サイラスを睨みつけ、エリファレットは叫んだ。普段そこまで大きな声を出さないせいで、不自然に声音が裏返ってしまう。

 視界のなかで彼はひるんだように言葉を失い、やがて、黙って頷いた。

(あたまが、いたい……)

 視界がチカチカと明滅する。

 頭の中に、自分のものでない記憶が押し寄せてくる。それは瞬く間に自分が大事にしている思い出をかき消そうとする――塗り替えられる。そんな恐怖心に追い立てられながら、エリファレットは歩き出した。



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