薔薇鉄冠の儀 Ⅱ

 


(サイラスは薔薇しかないと言っていたのに、どうしてあの場所に梔子くちなしがあったのだろう)

 宿屋の二階、部屋にふたつある寝台のうち片方を陣取りながら、エリファレットはグエナヴィアの薔薇の在処について考えていた。 

(そもそも、梔子の花が咲くのはもうすこし先の季節のはず……)

 《ガーデニア》の名を冠するとおり、学園には梔子ガーデニアがたくさん植えられている。季節になると、花の匂いであたり一帯が満たされるほどだ。

 悶々としていると、不意に部屋の扉が開き、サイラスが姿を現した。腕には荷物を抱えており、買い出しから戻ってきたところだった。

 《女王の死庭》を出て、徒歩で最寄りの集落に到着したふたりは、そこで宿を取った。山岳地帯から墓場のある荒地、さらにそこを越えた先にある海までの経路は、使徒教会の巡礼路として巡礼客が多く訪れることから、古くから宿場町として機能しているのだ。

「着替えと食料を調達してきた。脱いだ上着はこっちに。あとで血の染み抜きをしておく」

 うなずき、脇に畳んでおいておいた上着を手渡す。その下に着ていたブラウスは既に手の施しようもなく破けてしまったので破棄し、今は素肌の上からサイラスの外套を着ている状況だった。

 ようやくまともな服に着替えられると安堵したのも束の間、彼の視線がまだ自分に向いていることに気付き、エリファレットは唇を尖らせた。

「着替えるので出ていってくれませんか」

 素っ気なく伝えれば、「いや」と拒まれる。

「その前に、傷を見せてほしい」

「傷?」

「胸の傷だ」

 ああ、とエリファレットはうなずいた。目まぐるしく色んなことが起きたせいで、『殺された』事実もすっかり過去のものとして消化されていた。

 傷を見せないことには梃子てこでも動かない空気を醸し出されたため、大人しく要求を受け入れる。外套の留め金だけを外すと、その隙間から覗いた肌を、天窓から射す明かりが照らした。

 矯めつ眇めつ、傷ひとつ残っていない肌を観察する。それでもまだ心配なのか、黒い指先が伸びた。左胸のささやかな膨らみは、男の手にすっぽりと収まる。熱く乾いた掌の表皮がやわらかな肌を撫で、僅かな傷痕さえも見逃さないと執拗に這いまわる。

 エリファレットは唇を引き結ぶと、黙って視線を泳がせる。

 やがて、安堵の溜息が漏れた。

「……まるで何事もなかったようだ」

 彼の手のひらのなかで、心臓がトクトクと規則正しく脈打っていた。

「もういいですか?」

 エリファレットは彼の手を払い退けた。慌てて外套の留め具をつけ直すと、肌を完全に隠す。そして今度こそ出ていってください、ときつい口調で言いつけた。

 着替えた後は、サイラスが調達してきたパンと燻製肉で空腹を満たした。

 夜通し竜での移動は快適とは言えず、昨晩からほとんど寝ずに活動していたせいで体の限界が近い。日が落ちる前にすこし仮眠を取ろうと、ふたたび出かけてしまったサイラスの見当たらない部屋で、エリファレットは寝床にもぐった。

 目を閉じると、穏やかな暗闇が瞼裏まなうらに広がる。

(……グエナヴィア様の、記憶……)

 突如蘇った先代女王の記憶、そして自分の記憶が混在し、脳が今にも処理落ちしそうで、強い疲労感を覚えていた。しかし目をつむり、意識が曖昧になると、自分がどちらの存在なのか、途端、見失いそうになる。

(エリファレット)

 心の中で呟く。

(私は、エリファレット。グエナヴィアじゃない。先生や、サイラスがそれを望んでいたとしても……グエナヴィアにはなれない)

 グエナヴィアと同じ器、同じ記憶を有していたとしても、エリファレットとして生き、蓄積した十六年が消えるわけではない。

 それでも、誰もが自分という鏡を通して、グエナヴィアの像を結ぼうとする。それほどに彼女の存在は偉大で、失われてはいけないものだったのだ。

 昏々と眠り、どれほどの時間がったのか。不意に響いた物音で目を覚ましたエリファレットは、しかし起き上がるのも億劫に感じられたので、扉に背を向けたまま寝たふりを続けることにした。

 足音が近付き、寝台の手前で立ち止まる。

(薔薇の匂い……?)

 鼻腔をかすめたのは、覚えのある薔薇の残り香。

 衣擦れの音が響くと、何者かの体が、横たわる少女の上に覆いかぶさった。

「グエナヴィア様」

 サイラスの声だ。その声が帯びた切実さに、全身が硬直する。

 エリファレットが寝ていると思い込んでいるのだろう、乾いた手が髪や肩を無遠慮に撫でる。

「どうして、俺を待っていてくださらなかった……」

 耳元に吸い寄せられた唇から漏れる吐息は、熱く湿っぽい。

「あんなにもお慕いしていたのに、どうしてあなたは俺を置いていってしまわれたのですか。あなたのために生き、何万年もの途方のない時間を過ごし、帰ってきたこの男にどうして何も遺してはくださらなかった。それとも……あなたはこの俺のために、エリファレットを遺したのですか……?」

 不在にしている間、サイラスは《女王の死庭》でグエナヴィアの墓を探していたのだろう。その様子が容易に想像つく。しかしエリファレットの心を掻きむしったのは、彼の行為ではなく、その発言だった。

「――いい加減にしてください」

 突然身を起こしたエリファレットに驚くサイラスの腕を掴む。その頬に触れると、すかさず顔を近づけ、喉を震わせた。

 しかし、言葉が出ない。かけるべき言葉が見当たらない事実に愕然とする。当然だ――自分はグエナヴィアではない。

「エリファ――」

 代わりに、目の前の唇に口づけた。サイラスの唇はしょっぱく、涙で冷え切っていた。小鳥のようにその表皮を啄むと、力をこめて噛みちぎる。血と涙が入り混じったものを、唾液とともに口の中に返した。

 意表を突かれたサイラスの体を、寝台に引きずり込み、仰向けに押し倒す。その腹の上にまたがって、エリファレットは彼の顔を見下ろした。

「私はあなたの都合や感傷のために生まれたわけじゃありません。不愉快です」

 エリファレットは深く項垂れると、小さな声で、しかしはっきりと喋った。 サイラスは呆然自失として、頭上の彼女を眺めている。

「私にグエナヴィアたれと望むのならば」

 長い髪をかきあげると、声を低める。至近距離で彼の顔を覗き込み、額と額を合わせる。むせるような薔薇の匂いが漂った。

「これ以上、死者グエナヴィアすがるのをやめなさい。あなたの懐古をより美しくするために、私が存在するわけじゃない。あなたは私を死の淵から救うために生きるのでしょう、サイラス」

 サイラスの目尻に溜まった涙を親指ですくい、エリファレットは口の端を上げた。

 男たちの感傷に付き合わされている、とエグランタインは言った。今ならその意味を理解することができる。しかし、エリファレットにはそれを利用する以外に、道を切りひらくことは不可能だった。

 それでもやはり、割り切れないものが胸のうちにわだかまる。グエナヴィアの影にすがらせながらも、それに対する苛立ちは募る一方で。何故誰も自分をきちんと見てくれないのだろう、という怒りが収まらない。

「私のことだけを考えて生きればいい」

 その感情を覆い隠すように、エリファレットは毅然と言い放った。

 親指でサイラスの唇に触れ、その傷口に食い込ませる。

「――私に従えますね?」

 赤い瞳を細め、サイラスはゆっくりと呼吸をした。悲しみに満ちていた瞳が、生気を取り戻してゆく。彼はうなずいた。

 エリファレットの指を掴むと、そこに幾度となく恭しく口付ける。

(薔薇鉄冠を得て、遺伝病を治療する――そのためには、この人を突き動かさないといけない。私が持てる唯一の切り札だから)

 稀代の天才魔術師。生体干渉魔術の祖にして、エリファレットとエグランラインの創造主。前女王グエナヴィアの忠実な犬を自分のものにするには、彼の悲しみにつけこみ、その喪失の穴を埋め合わせてやらなければいけない。

 悲しみとは火傷のようなものだ。火傷同士が癒着してしまえば、それを引き剥がす痛みを恐れ、そのままでいることを選んでしまう。彼が手元を離れないように、自分に癒着させてしまえばいい。

 エリファレット・ヴァイオレットは、グエナヴィアの代替品として生まれてきたのかもしれない。

 しかし、エグランタインのような反抗を選ぶ道はなかった。エリファレットは、生きるために、それを利用すると決めたのだから。

 

◇ ◇ ◇


 『薔薇鉄冠の儀』開催当日は天候に恵まれ、地のてにある海の青が地平線に滲み、曠野あれのの赤と強烈なコントラストを放っていた。遅滞なく相続人エグランタイン、支援者アエルフリク侯爵ナサニエル、調停人アケイシャ使徒教会聖皇バーンハードの三名が《女王の死庭》に到着し、儀式は手筈通りに決行されるはずだった。

 しかし死亡が通知された相続人エリファレット、その支援者サイラス・エアンフレドがその場に姿を現したことにより――またその後起きた前代未聞の事件のために――第二〇〇代アケイシャ女王の継承者を巡る事件は、神聖王国史のなかでも、強烈な異彩を放って記録されることになる。



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