《FRAGMENT》女王の記憶

 

◇◇◇FRAGMENT《女王の記憶》◇◇◇


 女王の娘グエナヴィアの扶育先をめぐっては、当時、種々の議論が交わされた。

 そして貴族院の議長であり、最有力候補とされたシルウェリアス公爵家を差し置いて選出されたのが、ヘウルウェン伯爵家だった。

 《女王》そのものの存在が形骸化し、意義が薄れかけた時期だったのと同時に――アケイシャの貴族社会において、かの一族が魔術研究の権威であったことがその理由に挙げられる。

 古代種が《門の島》に去り、アケイシャは暗闇に包まれた。そこに光を齎したのが魔術であり、次に不毛の曠野こうやを切り拓いたのが魔術であり、さらに人々を恐ろしい外敵から守り抜いたのが魔術であった。そして魔術配列とは、不死の種にみずからの根源ルーツを求められる最大の証でもある。ヘウルウェン伯爵家にグエナヴィアが預けられた背景には、アケイシャとは魔術の祝福を受けた国である、という共通認識が存在したのだった。

 グエナヴィアはもっとも恵まれた環境で魔術を学んで育ち、彼女が拾ったサイラス・エアンフレドは伯爵家の支援を受け、見込んだとおりの魔術師に成長した。

 彼は最年少で宮廷魔術師の試験に通ると、かねてより志望をしていたヘウルウェン伯爵家の研究をも引き継ぐことになる。


 ――生体干渉魔術。


 《門の島》とはある種の図書館ライブラリーだ。あらゆる生体情報を保管し、蓄積する場所。そこにはかならず人間の遺伝情報も格納されているはずである。

 これを引き出し、現実の人間の遺伝情報を部分的に置き換えることもできるのではないか、というのが生体干渉魔術の基本概念だ。女王の遺伝病も治療できるものと考えられていたが――実現性に乏しく、研究は長い間凍結されたままだった。

 そこに携わったのが、サイラス・エアンフレドだった。

 彼は研究に没頭し、彼の生まれ持った特異な魔術配列は、驚異的な速度でそれを推し進めることに役立った。そしてグエナヴィアの母が死去し、彼女が十八歳で戴冠する頃には――すでに生体干渉魔術の原形が誕生していたとされる。


 そのひとつが、胚の編集技術であった。


 ◇ ◇ ◇


 むせるような薔薇の匂いに包まれた空間。王城の庭の片隅にある迷路園の行き止まりで、グエナヴィアは「あれがいい」とピンク色の薔薇を指差した。

「きちんと棘を取りなさい」

 うなずき、サイラスが薔薇の花を手折る。そのくきに生えた棘をむしろうとする彼の指先には、いくつもの小さな傷がある。

 いずれも花を所望する女王のために出来たものだ。きれいに棘を払った薔薇を、サイラスはグエナヴィアの赤子のような指先に優しく握らせた。

「他には?」

「寝室に飾る薔薇はこれで十分。それより、お前に頼んだものを、まだわたくしは受け取っていないのだけれども」

 すらりと長く美しかった指は、遺伝病の進行によって退化の一途を辿っている。薔薇の花を握りしめて、彼女はゆっくりとかぶりを振った。

「薔薇の花摘みに熱心になっていたのは貴女のほうなのに」

 サイラスは苦笑して、懐から金無垢の鎖を取り出した。

 その先にぶら下がるのは、手の込んだ彫金を施した香水瓶――ヴィネグレット気付け薬入れだ。

「そう、これ。これが欲しかった。お前の作るものが一番いい。容赦がない」

「貴女のことは誰よりも深く思っているつもりだから、そう言われるのは心外ですね」

 グエナヴィアにとって、気付け薬は命綱だ。

 彼女を蝕む遺伝病の苦痛は、鎮痛剤がほとんど効かないことで知られている。ただ耐えるほかなく、気付け薬がが無ければ、公の場で失神しかねい。女王の威厳を保つために必要なものだった。

 チェーンを首から下げ、「これを使えるうちが花というもの」と悪戯っぽく口端を上げる。

「前に同じものをジェイシンスに作らせたときは、ただの良い香りがするばかりで――」

 そのとき、背後で物音が響いた。サイラスがグエナヴィアを庇うように前に踏み出したが、視界に広がった光景を前に、肩を竦めただけで終わった。

「噂をすれば影」

 グエナヴィアが笑みをこぼした。

 迷路園の道で転倒した年若い赤毛の青年が、「すみません……」と頭をいた。その周辺には大量の羊皮紙の束が散乱している。

「陛下の御前だぞ。みっともないところを見せるんじゃない」

「申し訳ありません。陛下のお姿につい嬉しくなって、足もとの石に気付かずに転んでしまいました。……そういうサイラスくんも、他の宮廷魔術師が探して困っていましたよ。また職務を放棄して陛下のところに来ていたんじゃないですか?」

「放棄しているつもりはない。何事においても陛下が最優先なだけだ」

「わたくしがこれに薔薇を摘むのを手伝いなさいと言っただけ。もういい、サイラス。仕事に戻りなさい」

「陛下がそうおっしゃるなら」

 深くこうべを垂れたサイラスが、黒衣の裾を翻してジェイシンスの横を通り過ぎてゆく。

 拾い上げた羊皮紙の泥を払い、「相変わらずですね」とジェイシンスが苦笑する。

「サイラスくんの指、傷だらけでしたよ。あまり我儘を言うものではありませんよ、陛下」

「わたくしの我儘ではない。サイラスが望むから、それを叶えているだけ。それより、何を持ってきた?」

「以前陛下が仰っていたものについて、いくつか土地を見繕いましたので。事前に御目通しいただこうかと」

 なるほど彼が差し出したのは地図や測量図で、グエナヴィアはすみれ色の眸をすがめるとそれらに見入った。

「ここがいい」

「即断即決ですね、陛下」

「湖水地方は美しい。土地に恵まれないアケイシャのなかでは稀有な存在だ」

「まあ、そうですね。私もそう思いますけど……」

 ずり下がった眼鏡を押し上げて、ジェイシンスは声をひそめる。「それにしても、貴族以外を受け入れる学校を作るなんて」そう続けた彼に、グエナヴィアはかぶりを振る。

「何もおかしいことじゃない。確かに、これは信頼できる相手にしかまだ話せる内容ではないが――ゆくゆくは、教育は社会の礎になるというのがわたくしの考え。誰もが教育を受けられる社会は、長い目で見れば、アケイシャにこれ以上ない利益をもたらすに違いないからだ。サイラスがいい例なのは、お前も知ってのとおり」

 グエナヴィアは、慣例通り施政権を貴族院に委任したが、一方で国民の代弁者として議会に強い発言権を持っている。彼女の功績は数えきれず――その理念の中心となるのが、「魔術とは社会基盤のひとつである」という考えである。

 疫病や悪天候に強い穀物や飼料の開発、輪栽式農法の導入といった農業改革に始まり、様々な分野の魔術研究を盛んに支援している。元来魔術研究は貴族を中心とする王城派と使徒教会を中心とする教会派に分かれ、双方が競争資金を出すことで発展してきたものだ。魔術の軍事転用を主眼に置いた王城派は、教会派と比べ、庶民の生活に直結する分野の研究は冷遇されがちだった。

 そこに光を当てたのがグエナヴィアだ。

 教会派は《門の島》から実験体や貴重な動植物を召喚したり、そこに蓄積された遺伝情報を活用することで、創薬や薬品の安定した生産体制につなげてきた。使徒教会の伝道は、医術分野の発展とともにあったと言ってもいい。しかしグエナヴィアが力を注ぐ生体干渉魔術は、その勢力図を根底から引っくり返すものでもあった。これまで治療不可能だと言われていた遺伝病や、先天性疾患に光明を与える技術だったからだ。

「現在、魔術師となれるのは貴族や一部の資本家層に限定されている。それをあらゆる門戸に開き、魔術師の母数を増やせば、研究のための競争資金の獲得争いは自然と激化する。研究の申請内容はより精査されるようになり、より質の高い研究成果に繋がるだろう」

 そう言って、グエナヴィアは真横に立つジェイシンスを仰ぎ見た。もう歩く力に乏しく、彼女は木製の車椅子に腰かけている。

 彼女の視線を真っ向から受け止め、ジェイシンスは緑の目を眇めた。

 そして小さく溜息を漏らす。

「サイラスくんが羨ましいですね。彼は貴族でも何でもないのに、昔から、貴女と仲がよくて……」

 ジェイシンスは白い瞼を伏せた。

 彼はヘウルウェン伯爵家の末っ子で、他のきょうだいのなかでは、グエナヴィアともっとも年が近かった。しかし、交流があった訳ではない――女王の継承者であった彼女と、伯爵家の息子たちとでは、年に数回程度しか会話をする機会も設けられなかった。

 ジェイシンスと彼女が面と向かって私的な会話を交わしたのは、戴冠後、彼が宮廷魔術師として王宮に参内してからだった。

「あれはわたくしが目をかけてやらなければいけなかった。おかげで、随分と良い働きをしている」

「あなただから飼いならせるんですよ、陛下」

「そう、わたくしがいないと、他の誰ともうまくやっていけない男」

 彼女の言葉にジェイシンスはわずかに笑ったが、それだけだった。屈託のない彼にしてはめずらしくどこか影のある態度が、妙に気にかかる。

「ジェイシンス、お前……」

 風が吹き、薔薇の花びらが周囲に散る。視界のなかで、日をかした赤毛が風にもつれ合っている。

 グエナヴィアはすみれ色の眸をしばたくと、奇異なものをみる目で、そのうら若い青年を見据えた。


「――何を企んでいる?」


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