門の島より帰還せし者 Ⅴ

 霧雨が街を覆い尽くす。視界は白くけぶり不明瞭だったが、大通りにさえ出れば王城の方角にも当たりがつけられるはずだ。目論見を胸に、エリファレットは薄汚れた路地を駆け抜ける。

「……っ」

 不意に痛みを感じ、立ち止まれば、足の裏に陶器の破片が刺さっている。

(靴を置いてきてしまった)

 後悔の念に駆られたが、引き返している余裕もない。かかとの部分をざっくりと裂いた陶製のかけらを引き抜き、地面に放った。

 そして再び前を見据えようとしたところで、違和感を覚える。

 一瞬、目の前が暗くなったのだ。

 全身から血の気が引き、膝から下が震えはじめる感覚にはおぼえがある。

 ――発作だ!

 地面に膝をき、エリファレットは雨に濡れて冷えた両肩を抱き締めた。十六年の歳月に渡り自身を苦しめる発作は、いつまでたっても慣れるものではない。むき出しの神経をやすりで容赦なくがれるようなものなのだ。

(……まさか、こんなときに限って。でも、耐えられないほどではない、はず。たぶん)

 痛みの波は、予兆の段階である程度予想ができる。おそらくは数分たらず、その間失神せずに耐えられればいい――そう考え、ぎゅっと奥歯を噛みしめた瞬間、

「おや、こんなところで可愛いお嬢さんに会えるとはなあ」

 前方から、聞き慣れない男の声が響いた。

 弾かれたように顔を上げたエリファレットの目に、軍装姿の、見覚えのある顔が映り込んだ。学園ガーデニアで会った軍人だ。

 白い霧のなかにたたずんで紫紺の外套をはためかせ、その美丈夫は笑う。

 幾度か話題にも出てきたその男の名前を、エリファレットは記憶していた。

 アエルフリク侯爵――名をナサニエル。

 継承者エグランタインの扶育先で、彼女の後見人だ。

「せ、せんせいは……」

 息も絶え絶えに、問う。

 地面に座り込んだみすぼらしい恰好の娘を見下ろし、ナサニエルは青い目をすがめて「さて、どうだろうな」と首を傾げる。

「あれは件の最重要参考人だ。逃亡し、軍が追っているが――もしかしたら、君とはもう一生会えんかもしれんな」

 参考人、と不穏な単語について聞こうとした瞬間、エリファレットは呻き声を漏らした。

「ああ、発作を起こしているのかね、お嬢さん。可哀想に。因果なものだね。苦しみに悶える顔まで、先代陛下と瓜二つ……」

 痛みで呼吸が詰まる。地面に爪を立て、何とか意識を保つのに必死で、ナサニエルの言葉はろくに耳に入らない。

「知っているかい? 君は倫理上の問題で、けっして育ってはいけなかった胚だったんだ。だからこそ、男性名をつけて識別した――、なあ、サイラス?」

 地面に蹲る娘から視線を逸らし、不意にナサニエルが彼女の背後にむかって声を張り上げた。その先にたたずむのは、魔術師の集団を一蹴し、エリファレットを追いかけてきたサイラスだった。

「お前のところの魔術師は歯ごたえがないな、ナサニエル」

 踵高の長靴を鳴らしながら、サイラスはゆっくりと近づいてくる。

「君はそう言うが、あれでも腕利きだ。そもそも先祖がえりと一緒にされても困るという話だが――ああ、まずは〝おかえり〟と言うべきだったかな、元同僚。麗しき先代陛下の側近仲間。こうして会いまみえたのは十七年ぶりだが、見た目も中身も変わりないようで安心したよ。《門の島》はこちらと時の流れが違うようだね」

「お前は老けた。それにあれはどうした、教育を間違えている」

「エグランタインのことか? そうだなあ……息子三人のなかに混ぜたら、なぜかあんな風になってしまってね。男勝りで可愛いだろう?」

 「言伝を聞いたよ」とナサニエルは付け足した。

「この娘の支援をする? 馬鹿げたことを言う。どう考えても女王に相応しいのはエグランタインだ。この娘は確かに女王家系の血を継ぐが、エグランタインとは本質的に違う。そのかどで、十七年前、君はあの島に流刑されたんじゃなかったのか?」

「流刑じゃない。勅命だ」

「だが、皆がそう思っている。犯してはならぬ倫理上の罪によって、サイラス・エアンフレドは宮廷を追放されたとね。生体干渉魔術で胚の編集が禁じられたのも、ヘウルウェン伯爵の息子が職を追われたのも……」

 ナサニエルが腰にいた剣に手をかける気配は一向になかった。しかしその眼差しは氷のように凍て、サイラスを真っ向から射抜く。

「すべてはお前が禁忌を犯したからだ、サイラス・エアンフレド。これ以上、罪の上塗りをすべきではないのでは?」

「それは警告か? ナサニエル。不良軍人が大層なご高説を垂れるものだな。お前は変わった。前女王の忠実な僕が、今は権力闘争に夢中か」

「サイラス」

「俺は、俺だけは変わらずグエナヴィア様の忠実な犬であり続ける」

「墓前で主人を待ち続けるのか? ――不毛なことよ」

 彼らがいったい何の話をしているのか、エリファレットには分からずじまいだった。不意に背後から腕を掴まれ、強引に顔を上げさせられる。

 柘榴石ガーネットの瞳が、霧雨のなかで冷たい光を帯びた。

「立て、失敗作」

 エリファレットは無言で彼の瞳を見返した。

 痛みの波は引いたが、まだ体全体が気怠かった。それでも何とか立ち上がって、ふらついた体をサイラスに支えられる。

 そんな彼女を見て、ナサニエルが青い目を細めた。

 溜息をつき、呆れたように肩を竦めてみせる。

「それならもう止めん。うちのエグランタインが負けるとも思えないしな……。だが、これだけは言わせてもらうぞ。お前もジェイシンスも狂気に染められているんだ。先代陛下の幻影に執着するばかりでは、明るい未来はけっして迎えられん」

 サイラスはナサニエルを睨みつけ、「余計なお世話だ」と吐き捨てた。


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