ガーデニア Ⅱ
予想だにしていなかった発言に、エリファレットは益々混乱した。
目の前の男の圧は凄まじい。経験したことのないほどの悪意を浴びせられ、全身が固まるのがわかった。言葉にせずとも理解できる。訳は知らないが――
(私を、憎んでいる?)
たった一言だが、彼の言葉と態度は、それを如実に示していた。
この瞬間、敵意を向けられたのが別の生徒であったならば、たまらずに泣き出すが、そうでなくともぐっと堪えて辛抱するかのどちらかに違いなかった。
しかし幸か不幸か、エリファレットは大抵のことでは動じない性格だった。
「……私、誰にも殺された覚えはないんですが」
背を伸ばし、両膝にきちんと手を置いた状態で、エリファレットは言い返した。
十六年間、激痛と闘ううちに、心臓も鉄になってしまった――とは学園長の言葉。
「ちょっと厄介な病気は持っていますが、それを除けば私のこれまでの十六年間は平穏無事そのものですし、誰かに命を狙われたこともありません。お言葉ですが、どなたかとお間違えではないですか?」
夜色の肌をした青年は、無言で
にらみあうふたりを交互に見やり、青年の横で「はわわ……」と学園長――ジェイシンスが困惑を露わにした。
「ああ、もう! サイラスくん、うちの子にいちゃもんをつけるのはやめましょうっ、ねっ? ごめんなさい、エリファレット。そして驚かせてしまいましたね、みなさん。『これ』はすぐに片づけますので、授業を再開するように!」
ずり下がった眼鏡を押し上げると、ジェイシンスはいつになくキビキビとした動作で男の腕を掴んだ。そして教室から引き上げたかと思うと、最後に扉からひょっこりと顔だけ覗かせ、「エリファレットは、放課後学園長室まで来てくださいね」と言い残したのだった。
◇ ◇ ◇
騒がしい闖入者たちが去ると、魔術分子学の授業も遅れて再開された。
エリファレットは先ほどの出来事が頭から離れず、午後の授業を気もそぞろなまま受けるはめになった。そして最後の授業が終わるやいなや、矢も楯もたまらず教室を飛び出し、学園長室を目指したのだった。
「――おや」
気が急くあまり、断りもなく学園長室の扉を開け放ったエリファレットに対し、ジェイシンスは緑の目を
填め殺しの窓のむこうには暮れなずむ外の景色が映っている。マホガニーの大きな執務机を目に入れ、さらにその手前に置かれた来客用の長椅子とテーブルへと視線を移すと、エリファレットはツカツカと無言で室内に踏み入る。
「エリファレット。そんなに息を切らして、まさか走ってきたんですか?」
自身も来客用の椅子に腰かけ、のほほんとした顔で紅茶を嗜むジェイシンスの横を通り過ぎ、その向かいで不満そうな顔をした男の前に立った。
「どういう意味ですか?」
開口一番にそう言い放ったエリファレットに対し、夜色の肌をした男はゆっくりと顔を上げた。柘榴石の瞳が帯びたのは、色濃い嫌悪でしかない。
「何がだ?」と億劫そうに響いた声に、エリファレットは臆さない。
「私、あんな風に誰かに憎しみを向けられたのは初めてでした。おかげで、授業の間も気になって仕方ありませんでした。なぜあんなことを言ったのですか? どういう理由で、あなたは私を憎んでいるんですか?」
十六年間生きていて、かつ集団生活をしていれば多少の揉め事や人間関係のこじれは存在する。他人の
だが、あそこまで明確な殺意を向けられたのは生まれてはじめてだった。それも、自分にとっては初対面の相手に。
自分の何が相手を強い感情に駆り立てるのか理解できない。謎を解かねば気が済まない性質のエリファレットは、自身の発言が男の逆燐に触れる可能性をまったく考慮できていなかった。
「ふざけるな!」
長椅子から立ち上がり、男が一喝した。
上背の高い男の顔は、エリファレットが見上げるほどに高い位置にある。
「知らないというなら教えてやる。お前は失敗作だ。十七年前、俺が破棄したはずの胚。それがなぜ、今になってものうのうと生き延びている? どういう
――失敗作? 破棄したはずの胚? 怒り狂う男はむやみに感情をぶつけてくるばかりで、その発言はエリファレットの理解の範疇を越えていた。下手に何かを言えば、今度は拳が飛んでくるかもしれない――ぎゅっと両手でスカートの裾を握りこむと、「どういうことですか?」と小さな声で問いを重ねる。
「よく、わかりません。もしかしたらそういうふうに言えば、私が怯えたり、萎縮したりするって思っているのかもしれませんが、私は辛抱強いので、負けません」
不意に肩に温かな手が触れ、弾かれたように振り返ると、至近距離にジェイシンスの顔があった。
彼は穏やかにエリファレットに微笑みかけると、「落ち着いて、サイラス」と、怒りが収まらない様子の男に対して語りかけた。
(サイラス?)
その名前に引っかかるものがあり、エリファレットは目をしばたく。そんな彼女を自分の隣に座らせ、ジェイシンスは慣れた手つきで淹れたての紅茶を渡した。
「順を追って話さないとわからないよね、エリファレット。まず、この人は――」
「もしかして、サイラス・エアンフレド?」
ジェイシンスは「知っているの?」と悪戯っぽく囁いた。
「生体干渉魔術の発見者だって、教科書に載っていました。でも……」
サイラス・エアンフレドの名を知らないなんて、とんだもぐりだ、とさえエリファレットは思う。すくなくとも、魔術に関心があって、彼の名前を知らない人間はほとんどいないはずだ。
彼を端的に表す言葉は、稀代の天才魔術師。
若くしてあらゆる魔術師たちにとって憧れである宮廷魔術師の職に就き、あっという間にその首席にまで登り詰めた。特筆すべきは、彼が〝生体干渉魔術〟を考案した張本人であり、アケイシャの医療と魔術に多大なる貢献をした人物であるということ。
サイラスが生体干渉魔術を発見したとされるのが、約二十年前。そこからさらに三年後、彼は忽然と宮廷から行方を眩ませた。彼の才覚を恐れた人間が、その命を秘密裏に葬ったのであろうというのが、一般人の中での〝定説〟だが――
「どうして、生きているんですか? 歴史上の人物だとばかり思っていたのですが……」
難しい顔をして呻ったエリファレットの横で、ジェイシンスが噴き出した。
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