第1話 ガーデニア

ガーデニア Ⅰ



第一話 ガーデニア


 神聖王国アケイシャは、いずれも作物の育ちにくい荒野ヒースと湿地帯が大半を占め、海嶺の上に形成された島国である。

 数英里マイルに渡って続く岩礁地帯が国土を囲み、古来は外敵に対して比類なき利を発揮した。蒸気機関の発達によって航海技術が発展し、諸外国が国境を越えた経済圏で繋がれる現在であっても、その排他的な姿勢が変容することはなく、事実上の鎖国を貫いている。

 かつてアケイシャを訪れたとある世界旅行者はこのように記録している。


 偉大なる魔術大国――古代種に愛された女王の島、アケイシャと。




 神聖王国アケイシャ・その霧深い首都から汽車で約二時間、北西高原の中腹に位置する行政教区コヴェント――その郊外、全寮制魔術学校ガーデニア

 前庭に植えられた梔子の若々しい葉を、そよ風が揺らした。風は開け放たれた窓から校舎にも忍び込み、紗のカーテンをなぶった。

 うつろう午後の日差しが、長椅子の上に横たわる少女の瞼に触れる。するとその瞼が震え、すみれ色の瞳が覗いた。

(ここは……保健室?)

 まぶしさに目を細めながら、エリファレットは眠りに落ちる前の記憶を整理する。

 確か、午前の授業中に「発作」に襲われ、保健室に駆け込んだはずだ。常駐の医術士も慣れたもので、すぐに鎮痛剤を打ってくれた。

(痛みは――おさまったみたい。もう、大丈夫)

 用意されたはずの点滴台や施術用器具は、すでに跡形もなく片付けられている。

「目を覚ましましたか、エリファレット?」

 衝立のむこうから顔を覗かせたのは、この学園に勤務する医術士の女性だった。

「体調は大丈夫ですか? 問題ないようなら支度をして教室に戻りなさい。もうすぐ午後の授業が始まる頃ですから」

 エリファレットは無言でうなずく。

 痛みのないことを確認しながら体を起こすと、呼吸をしやすいように外されていたブラウスのボタンを元に戻し、ベージュ色のピナフォア・ドレスエプロン・ドレスの皺を直した。隅に置かれたリボンを手に取ると、手鏡を借りて所定の形に結ぶ。そうして、彼女がこの学園――〝ガーデニア〟の生徒の証である制服が整った。

 《学園ガーデニア》は、元宮廷魔術師が、職を辞した十七年前に風光明媚な湖水地方に開いた魔術研究機関兼学校だ。

 エリファレットは魔術学校の高等部に所属している。学園の創始者である学園長は慈善家として知られ、身分の貴賤を問わず教育と研究の門戸を開き、さらには国内の孤児を何人も引き取っては魔術師の後進の育成に心血を注いでいる。

 前かがみになって革靴の紐を結ぼうとしたエリファレットは、ふと衝立をどけて医術士の先生が現れたのに気付き、顔を上げた。

「エリファレット。念のためもう一度聞きますが、体調におかしいところはありませんね?」

 エリファレットには生来の遺伝病がある。発作もそれによるもので、彼女の病気はガーデニアにおける研究対象のひとつにもなっていた。

 魔術と医療は分野として重なる部分が多く、アケイシャにおいてすぐれた魔術は技能に長けた医術士であり、その逆もしかりとされている。エリファレットの場合、学園長と医術士がチームを組んで、遺伝病の診察と経過観察、緩和ケア、そして治療法の研究を行っていた。

 保健室に配置されたこの医術士もそのメンバーのひとりだ。

「少し頭が痛くて眩暈がします。いつもはすごく眠いくらいなんですが」

「そうですか。あまり効果は出ていないようですね……」

 すみれ色の瞳をしばたき、「効果?」と聞き返した。

「学園長の命で今回から新薬を使いました。もうすこし副作用を抑えられる計算だったのですが……」

 作り笑いを浮かべた医術士の顔をじっと見つめ、「そうですか」とうなずく。

 「すこしでも体に異常を感じたら、すぐに報告してくださいね」いつになく強く念を押され、エリファレットは圧倒されつつもうなずいた。そして壁時計の時間を確認すると、慌てて保健室を飛び出したのだった。


 ◇ ◇ ◇


 今年で十六歳になるエリファレットは、乳児の時に捨て子となり、ガーデニアの学園長に拾われた。ごく普通に育つであろうと思われた彼女に致命的な疾患が判明したのも、ほぼ同時期だったと聞かされている。

 エリファレットには親から受け継いだ致命的な遺伝病があったのだ。

 それだけはなく、もうひとつ重大な欠陥があった。

 魔術配列と呼ばれるものがある。人間の体を構成する細胞のひとつひとつには、膨大な遺伝情報が格納されており、それが肉体の働きや、あるいは容姿や先天的な資質などを左右する。遺伝情報とは、いわばコード化された人間の設計図で、四つの文字スペルが配列された二重螺旋構造によって表現される。遺伝情報を何兆字もあるコードだとすると、数十、あるいは数百文字単位で区切った特定の節が、それぞれ異なる機能を担っている。そのうちの一部に個人の魔術の才能を決定する配列があり――これを俗に魔術配列と言う。

 魔術配列は、誰しもが生まれ持つ配列だが、幾つかのタイプに分類される。その類型によって、魔術が使えるか使えないか、あるいは使える場合における「傾向」が左右される。さらに、この配列は、もとを辿ればアケイシャの人間が、この地にかつて存在した不老不死の種――『古代種』から受け継いだものだと言われる。

 エリファレットには、生まれながらにその魔術配列に損傷があった。

 彼女の受け継いだ遺伝病とは、細胞が制御なく自死していくものだ。発作のたびに体がすこしずつ溶ける。プログラムされた細胞死アポトーシスの暴走によるものとされ、最後には脳まで破壊される致死性の病だ。

 しかし魔術配列の損傷は、幸運にも彼女の遺伝病を補った。

 体内を循環する魔力の制御ができないかわり、自死した細胞が勝手に蘇るのだ。発作によって体が溶けても、かならず再生して元通りになる。しかしその繰り返しは、彼女に多大なる苦痛を負わせた。


 そして魔力の循環が肉体の再生に極振りされた結果、魔法学校に通いながら、一切魔術を使うことができないという、奇妙な状況に陥っているのだった。


 ◇ ◇ ◇


 エリファレットは急ぎ足で、保健室のある本棟から高等部の教室のある別棟にまで移動した。

 麗らかな春の日で、園丁が整えたシダと苔の小径こみちには穏やかな日ざしに包まれ、樹の上を栗鼠が駈け回っている。

 すでに授業が始まっていた教室に、後方の扉から入り、何食わない顔で自席につく。

「あら、男の子は別の棟よ」

 隣席の少女が小声で指摘するのを無視して前を向く。ガーデニアは男女別学制で、同じ敷地内に校舎はあっても、長机を並べた教室にひしめくのは同年代の少女だけ。エリファレットの性別は女だが、なぜ男性名がつけられたのかは本人も知らない。

「みなさんもご存知のように、遺伝情報を編集し、先天的な疾患を治療することを可能にしたのが、生体干渉魔術です」

 「たとえば血が止まらなくなる病気などは、遺伝病のひとつですね」と壇上に立つ魔術分子学の教師の言葉に耳を傾けながら、教科書と筆箱を机の上に並べる。

「生体干渉魔術は、二十年前に先代陛下に仕える宮廷魔術師によって考案され、この十数年で急速に国内に普及しました。ガーデニアは生体干渉魔術を中心とした研究機関ですので、皆さんもよくご存知でしょう。今は限られた遺伝情報しか編集ができませんが、研究成果によってはこれまで以上の発展が期待されるでしょう」

 教師に指定されたページを開くと、人名が目に入った。『生体干渉魔術』の考案者で、魔術師の卵であれば誰でも知っている名前だ。

 魔術とは、魔術配列の親でもある古代種らが、太古に去ったという未知の土地――ほとんどの人間が辿り着けない場所だからだ――『門の島』にアクセスすることで得られる現象だ。門の島から生体を召喚する技術であり、実世界に対し改変を加えられるものではないというのが常識だった。それでも病気や怪我に効果的な動植物を比較的に簡単に入手することができ、創薬や薬剤の調合に応用され、魔術は医療分野に多大なる貢献をしている。

 一方で『生体干渉魔術』は、それまで不可能だった「人体への干渉」を可能にした画期的な魔術だ。これまで薬剤では治療困難だった遺伝病や先天疾患への治療に活用されている。

(……魔術配列は他の遺伝情報と違って、生体干渉魔術でも治療が難しいと聞くし……私には関係がない)

 エリファレットの遺伝病に関連する話として、昔から何度となく学園長から聞かされた内容だ。退屈な座学に瞼が下がりはじめた頃、にわかに教室の外が騒がしくなる。

「――やめてください!」

 聞き覚えのある声に、眠気が吹き飛んだ。

(学園長……?)

 エリファレットは教室の扉に視線を向ける。すると廊下側から、複数の足音が聞こえ、ちょうどその扉を前に止まった。

「白昼堂々女学生の教室に闖入しようとするなんて、仮にも宮廷魔術師のすることじゃないですよ! お怒りなのは十分伝わりましたから、もう少し冷静に、せめて授業が終わるまで――」

 引き留めようとする学園長の言葉もむなしく、前方の扉が慌ただしく開かれた。それまで騒然としていた教室が、一瞬で静寂に包まれる。

「待てるわけがない。俺は腹を立てているんだ、ジェイシンス」

 そして響いたのか、若い男の声だった。エリファレットにとっては見慣れた赤毛の男を押しのけ、ひとりの青年が教室に足を踏み入れた。

 美しい男だった。アケイシャでは稀な夜色の肌。短く刈り込んだ黒髪に、これまた異様な柘榴石ガーネットの赤い瞳。

 上背のある肉体を包むのは、金の縁取りが特徴的な漆黒の外套。その着用を許されるのは、数ある魔術師の一握り――貴族出身で、健康な男。そして熾烈な選抜試験をくぐり抜けた者だけがその職務に就くことを許される王城の専属魔術師――宮廷魔術師だけだ。

 膝までを覆う長靴ちょうかでカツカツと音を立て、その男は唖然とする教師さえも押しのけて壇上にのぼる。少女たちのひしめく教室を見渡すと―― 

「エリファレット・ヴァイオレット」

 事もあろうか、後方の席に座るエリファレットを指名した。

(……どうして私の名前を……?)

 見知らぬ宮廷魔術師の男は、けっして好意的でない視線で彼女を睨みつけると、さらに言葉を重ねた。

「――俺が殺したはずのお前が、なぜ生きている?」

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