時計塔での攻防
◇ ◇ ◇
十七年後、神聖王国アケイシャ・首都。
螺旋階段を駆け上がる音が、薄暗い塔内を反響する。
追う者と追われる者の関係でいうならば、エリファレットは後者だった。
小柄な少女は腰ほどまで伸びた白金色の髪を振り乱し、朽ちかけた木の階を何段も飛ばしてはつんのめる。寸前のところで体勢を崩しかけては立て直し、ひたすらに重い足を前へと動かした。
背後を確認する余裕はなく、ただ目の前に広がる暗闇を信じて突き進んでいた。
「はあっ……、はあ……」
全速力で走り続けた手足は限界に近く、酷使した肺がキリキリと痛んで正常な呼吸を妨げる。それでも一瞬たりとも緊張を緩ませないのは、ここで立ち止まったら殺されるという確信があるからだった。
螺旋階段が終わり、エリファレットが飛び出したのは巨大な歯車が無数に噛み合う機械室だった。焦りを募らせながら、さらなる出口を求めて周囲を見回す。そして逃げ場となりそうな縄梯子を目端に捉えた矢先、びくりと肩を震わせた。
せわしなく動く
弾かれたように背後を振り返ったエリファレットの前に、ひとつの人影が現れる。
美しい少女だ。それも、エリファレットとよく似通った顔立ちの。
白金色の髪、すみれ色の瞳、滑らかなミルク色の肌。しかしその娘のまとう空気は、エリファレットは相反するものだった。短く切った髪、鋭い眼光、すんなりと伸びた手足に均整の取れた肉体。
上半身には白いレースタイとブラウス、そして
「――追いかけっこはこれで終わりかい、お嬢ちゃん?」
鼓膜を打ったのは、美しい容貌からは想像もつかない、老婆のように醜く枯れた声。
「温室育ちはこれだからいけねえ。骨もない、根性もない。つまらん茶番に付き合わされる俺の身にもなってくれよ」
両腕を広げ、呆れたように肩を竦めた娘は、次の瞬間――まとう空気を一変させ、深く前方に踏み込んだ。
エリファレットはとっさにしゃがみこみ、繰り出された右足を避けようとする。しかしその寸前に軸足を捻り真正面に着地した娘に髪を掴まれ、動きを制された。間髪入れず、鳩尾に硬い靴の先端が叩きこまれる。
背後にあったぜんまい
「可愛い子ウサギちゃん、飛んだり跳ねたりして楽しいかい?」
エリファレットは無言で娘を睨んだ。その視線を真っ向から受け止めると、「辛抱強いんだな」と彼女はほほ笑むと、手を離す。
そして、右腕の袖を
暗闇のなか、白い手首に浮かび上がったのは、暗い光を放つ真紅の紋。
「門の島からきたる者よ」
ひび割れた娘の声が、魔術を発動するための詠唱を紡ぎはじめる。
エリファレットは痛む上半身を叱咤し、気力だけでその場を立った。藁にもすがる思いで、すぐ傍にある縄梯子に右腕を伸ばそうとする。そんな彼女を横目に、鼻歌まじりで娘は
「我を心ひきて黒暗をゆかしめたまはず」
娘の手首で、赤い光が火花を散らした。
すると縄梯子を伝いのぼろうとするエリファレットの足首に、冷たい霧が触れた。
次の瞬間、機械室の床一面出現したのは、無数のおどろどおろしい植物の蔦だった。
蔦の一本一本がエリファレットの腕と同じくらい太く、その表面は無数の硬い棘に覆われ、みずからの意思があるかのように蠢いている。鼻腔をつくのはかぐわしい薔薇の香気だ。蔦のあちこちで、血のしたたるような真紅の花をつけていた。
その一本が、エリファレットの左足に絡みついた。
「……っ、」
きつく左足を締めあげる蔦、スカートごと皮膚に食い込む棘。エリファレットの足もとに群がるおぞましい薔薇の蔓は、軟体動物のようにゆらゆらと蠢きながら、左足以外の部分へと狙いをさだめようとする。
痛みに散逸しそうになる思考を繋ぎとめ、深く息を吸う。
そして縄梯子の先を見すえると、「まだ大丈夫」と小さな声で呟いた。
(痛みには慣れている。冷静になれ、エリファレット)
自分に言い聞かせる。
この十六年、激痛とともに歩んできたはずだと。
生まれながらに負った、ある病のために。夜な夜な、彼女の細胞は死んでは蘇る。肉体が溶け、ふたたび再生するのだ。終わることなく繰り返される破壊と創造は、想像を絶する苦痛を日夜エリファレットに与え続けた。
(――この状況を打開するには、一か八か、魔術を使ってみるしかない。大丈夫……今まで、何もしてこなかったわけじゃない……)
「門の島から来たる者よ」かすれる声で詠唱を始めた。
周囲に
「我をして暗き
右手首で赤い光が弾けた。薔薇の蔦がエリファレットの周囲に飛び出した。短髪の少女のものと似通ってはいるが、圧倒的に細く、花は蕾すらついていない。
(……まあまあ成功ってところ。初めてにしては、上出来)
エリファレットの左足を拘束する蔦に、その蔦は絡みついた。かろうじて出来た隙間から左足を抜き、エリファレットは両腕の力で縄梯子を這い上がった。
夜の風が吹きつけ、冷たい霧雨が頬を打つ。
青銅製の巨大な釣鐘が頭上に見えた。
這いずるようにしてその真下に出た彼女の左足は、複数の棘が深く刺ささったままで、立つこともままならない。肩で息をしながら、眼下に広がる世界を睨みすえる。
塔の側面を覆う巨大な文字盤で、短針がゆらりと動いた。
ガス灯の明かりにおぼろに照らされた街並み、そのあちこちの屋根で風にたなびくのは――漆黒の弔旗。
ちょうど三年前の今日、前女王グエナヴィアは崩御した。比類なき女王陛下の死によって、神聖王国の民は大いなる悲しみに暮れた――
「たいしたもんだ。泣き喚きすらしねえなんて」
さらにあるものを視界に捉えた矢先、エリファレットの後を追い、短髪の少女が姿を現した。全身に風を当て、悠然とたたずむその姿には自信が満ち溢れている。
「だが、これで終わりだ。女王の継承者は、ふたりもいらない」
その言葉にすみれ色の眸をすがめ、エリファレットは唇を噛む。
「――いいえ」
か細い声で応え、一度、
そして両腕を使い、後ずさる。その先に、地面は続いていない――
朦朧とする意識のなかで、エリファレットは全身が風を切る感覚を味わった。そして、何故このような顛末に至ったのか、記憶の断片が走馬灯のように頭を駆け巡る。
話は二日前にさかのぼる。
エリファレットにとって人生最悪の出会いから、彼女の物語ははじまった。
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